田原城での一コマです。
若君様がお生まれになりました。
宝暦十三年(1763)御右筆部屋留
五月十四日
一、御伽の女中が三の丸で男のお子様を生んだ。その件で御家老衆、御用人衆ともにお祝いを申し上げるために登城。勿論夜に入ってからの事である。
五月廿日
一、三の丸でお生まれになった若君様の御七夜の御祝儀があり、お殿さまより御名前が贈られた。八木八右エ門が麻の裃を着装して御使者をお勤め申し上げた。お贈りなされたものは以下の通りである。
お名前 久熊 引合紙(檀紙・高級和紙)二枚を三つ折りにして命名紙とした
宝暦十三年未五月廿日
(守り袋、守り脇差し)袋入り
産着 一重(枚)
お魚 一折(尾)
樽(酒) 一荷
以上 奉書紙二枚に認めた
右の他にお殿さまから頂いたものは別帳に書いたのでここでは省略する。
一、若君様は永秀院(康徳公妾)へ御預けになり養育されることになった。久熊様は藤田丸(藩主家族が居住する曲輪)へ午後一時過に御移りになった。
一、御家老衆、御用人ともに全員揃ってお会いしてお祝い申し上げた。
一、久熊様とお名前をお付けになられたので、同じ漢字を使う名前の者は訓読みを遠慮しなさい。音読みは問題ないと大御目付から各部署へお達しがあった。
九月五日
一、久熊様本日お食い初めの儀式につき、お殿さまから御魚一折が御納戸の者を使者として送られた。
一、久熊様の初宮参が行われた。御供に鈴木玄益(御医師)、近藤三郎左エ門参上した。
夭折率の高かった時代。
生まれた子供にまず贈られたのは護符や御札の入ったお守り袋でした。
上の浮世絵の子供が腰につけている赤い巾着袋です。
山上憶良ではないですが、子に勝る宝はありません。
病魔におかされぬよう江戸時代の親たちは、疫病神除けの護符をこの巾着に入れて子供たちに持たせたようです。
そのあとの目録は貧乏藩とは言え大名の若君様ですから豪華なものです。
お食い初めは生後100日目。
初宮参も田原では生後100日目だったようです。
現在の初宮は1か月後ぐらいが一般的でしょうか。
このあたりは地域差がありますから何とも言えませんね。