天下統一の学習モデル | きみが輝く時

きみが輝く時

教員生活を終え、これからの人生は、風のように自由に生きていきたいと思っています

教育はすばらしい仕事です これからも学校の先生たちを応援していきます

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の中で、一番天下統一に貢献したのは誰だと思いますか

 

 

 

織田信長

★父親の葬儀の席(18歳)、焼香になったら、仏前に投げ捨てた。

 

★葬儀から2年後、信長の世話役の平手政秀(ひらてまさひで)が、信長をいさめるために、割腹死。しかし、信長はあらためず。

 

★27歳の時、桶狭間の戦い。今川氏をたおし、その後破竹の勢いで天下統一に向かって走り出す。(義経戦法を使った)

 

(性格)

★執念深い、残忍、冷酷

 ・皆殺し作戦・・・比叡山焼き討ち逃げてきた婦女子も切り殺す。

        一向一揆も同じ。

 

★独創的・合理主義者(前例、常識にとらわれない)・天才型

 

(行儀の悪さ)

★町の中を歩き食い。柿・うり・栗をかぶりながら歩く。

 

★仲間にもたれかかったり、肩にぶらさがったり、まともな歩き方をしたことがない。

 

(ルックス)

★イケメン

 

(ファッション)

★ヘアースタイル・・・超個性的。今の時代で言えば、モヒカンなみ(赤色等のはでな色のひもで巻きたて、髪の先端を、茶せんのようにした茶せんまげ)。

 

★服装・・・豹がら、ノースリーブ(半ばかまで、豹がら虎がらの布を縫い合わせたもの。夏はそでをはずして着る)。腰には、火打ち袋や、ひょうたんなどを、たくさんぶらさげている。

 

 

豊臣秀吉

★農民の子。名は木下藤吉郎。

 

★あだな・・・サル・ハゲネズミ

 

★宣教師フロイスの証言

「秀吉は身長が低く(推定150cm)、また大変みにくい顔、片手には指が6本あった。目が飛び出していて、ひげが少ない」

 

★6歳の時、父が死に、継父が来るが、おりあいが悪い。15歳で家を出る。寺で働いたり、商売したり、家来になったりしたあと、23歳のとき信長に仕える。

 

★初めは、馬小屋の仕事。その勤勉さを認められ、信長のぞうりとりになった。雪の降る日に、ぞうりをふところに入れ、あたためる。それが認められ、その後、秀吉の家臣として、出世していく。

 

★サルに生まれ、神になった男と呼ばれている。

 

★本能寺の変のあと、明智をうったのは秀吉。

 

★51歳のとき秀吉は、近衛前久の養子になり、藤原姓を名乗れる資格を得、関白として、天下をとった。豊臣は、天皇からいただいた名前。秀吉は、征夷大将軍ではなく、関白として天下をとる。

 

(性格)

★明るい。派手ずき。金遣い荒い(黄金茶室)。憎めない。愛嬌がある。お調子者。日本一のごますり(織田の有力な武将の丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらい羽柴秀吉にした)。

 

★独創的

 

★戦の戦いぶり 

 一夜城・・・敵を前にして、夜上流から木材をイカダに組んで流

     し、朝組み立て、数日で砦を築いた。

★母親孝行。終生母親を大切にした。母親は大政所(おおまんどころ)と呼ばれた。母親が死んだことを知らされると、気絶した。死後、お寺をいくつか建てる。

 

(血液型)

★秀吉の血液型は推定だがO型。

 

 

徳川家康

★8歳で、今川氏の人質になる。

 

★19歳の時、織田信長が桶狭間の戦で織田が今川が破り、自分の城に帰り、三河を統一し、21歳の時、織田の仲間になる。

 

★秀吉の死後、関ヶ原の戦で勝利。征夷大将軍となり、天下をとる。62歳(今で言えば80歳くらい)

 

(性格)

★暗い、地味、がまん強い(子ども時代の人質経験から)、慎重(いちかばちかの勝負をしない。生涯唯一の大勝負が、信玄との三方原の合戦。しかし、惨敗し、命からがら逃げ帰る。この時の逃げ帰った無様な姿を肖像に描かせ、教訓とした)

 

(あだな)

★たぬき(一見とぼけているが、悪がしこい)