あなたは賢いですか? | これでも私立高校教員

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「あなたは賢いですが?」

 

こういった質問を高校生にする。

 

たいていは、こういう答えが返ってくる。

 

「いえいえ、賢くありません」

 

 

ところが、同じ質問をアメリカやスイスに住む甥や姪にすると、ちょっと返事が違う。

 

「この場合の賢いとは、どういう意味?」

 

このような疑問文が返ってくる。

 

 

さて、皆さんはどちらの返事が思考的だと思いますか?

また、どちらがこのあとの思考の広がりに可能性を感じますか?

 

先日、ある学校の高校生が学校で以下のような課題の小論文を出されました。

 

街中に設置されているビデオカメラのメリットと踏まえ、あなたの考えを述べなさい。

 

この生徒は、出だしにこのようなことを書きました。

 

そもそも、町中にどうしてビデオカメラを設置するのだろうか。

 

 

しかし、個々の部分に大きく「×」が打たれ、このようなコメント(対話はない)が書かれてもどされたそうです。

 

最初に「YesかNo」を書かなければ、自分の考えにならない。

 

日本の指導とは、こうして「答え」を出しことを目的にしてきた。

それは極めて知識的であり、その知識の吸収や分析、さらに選択する能力で、もはや我々はAIには敵わない。

 

小論文とは、疑問、思考の産物であり、「型」ではない。

しかも上記の指導では、明らかに「No」に誘導しようという指導者の意図があり、それに反すればそこでも「×」が待っている。

 

思考の絶対条件は多様性の容認であり、有名な言葉を引用すれば、

 

「みんなちがって、みんないい」

 

である。

 

思考の「対話」をすると、いつものことだが、全員が楽しく、学校でもそうしたことをやって欲しいという。

むろん、眠くもならない、叱られることもない。

 

それは、ひとっつの答え以外はすべて誤答、そんな一般的な勉強とは異なるり、そこでは疑問と対話が繰り返されるからである。

 

 

私には偶然にも海外に住む甥や姪や多数おり、彼らから受ける刺激は、まさに日本のこうした指導の未来性のなさを示唆し、同時に、「絶対に日本の高校生は海外の高校生に勝てない」と、何とも言えない気持ちになる。

 

しかし、日本の高校生の豊富な知識は武器であり、その武器の使用時に思考をまとえば、日本の若者の未来は輝くものとなる。

 

小論文とは受験指導でもある。

しかし、同時にそうした短期的なものではなく、10年後、20年後、さらにいえば人生でもっとも必要になるであろう思考の仕方を学ぶことであり、大学はもちろん、人生へのモチベーションを上げるものである。

 

今週末は、指導している生徒が何人も推薦入試を受験する。

むろん、結果は大切だが、それ以上に思考と向き合い、対話(自分自身との)を楽しみ、そのうえで結果につなげてほしいと思う。

 

  

 

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