彼は精神科の隔離室に入れられていた。食事を拒み、排せつも決まった場所にできないため腕には点滴の針が刺され、股間からは尿道カテーテルの管が垂れていた。
職員の問いかけにも応じず、ただ無心に天井を眺めているように見えた。そんな中、彼はひたすら思考を続けているのだった。
(どうして私はこんな地獄に落ちたのだろう。)隔離室の中にはベッドと備え付けの便器しかなく、寝る以外に何もやることがないがずっと眠り続けることもできず、目が覚めている間も横たわっているしかなかった。
何もすることのできない一日は無限のように長く、電気が消え、眠りにつくことができるまでの時間が、彼の精神を蝕んでいった。
(時間の流れがおかしい。いやに遅すぎる。私はブラックホールにでも吸い込まれたのだろうか?だとしたらいつ、どこで吸い込まれたのだ?そもそもブラックホールというものを見たことがない。ブラックホールの正体は何なのだろう。)と彼は無意味に等しいことばかりを考え続けていた。
(そうかあの女か)と彼は過去にSEXした女性が実はブラックホールであり、挿入した際に精神を吸い込まれたのだと思った。だとしたら、このブラックホールの中からどう抜け出せばいいのかを考えながら眠りについた。
すると夢を見た。女が立っているのを見つけると、彼は迷うことなく女を犯し、そこで目が覚めた。
(またやっちまった。)女に吸い込まれている限りこの無限の牢獄から逃れることはできず、女の呪縛から解放されればこの地獄が終わると考えていた。
目が覚めている間、想像を絶する程に長い時間をもう二度と女にだけは手を出すまいと誓い続けた。
そして夢を見た。黒髪の女が「次は私?」と笑いながら言った。
彼は「これが最後だから」と言いながら女を犯した。そして目が覚め、「またやっちまった」と呟いた。
それから毎晩夢に女が現れ、彼はどうしても理性が効かなくなってしまうのだった。
現実の自分と夢の中の自分の二面性に彼は精神が分離してしまっているのではないかと考えた。
だとしたら、自分の力ではどうしようもないと彼はうなだれた。
そこで彼は眠ることをやめた。眠って夢を見ることが唯一の現実逃避だったがやむを得なかった。
彼はあくまで地獄から抜け出る方法を模索していたのだ。眠りさえしなければ、夢さえ見なければ女を犯すこともなくこの無限地獄が終わると考えていた。
しかし、横たわっているだけの毎日で睡魔に勝てるはずもなかった。彼は眠りにつき、夢を見た。そこは真っ暗闇で光一つなく、自分の体の感覚だけがある世界だった。
すると声が聞こえてきた。「アダムよ。イヴを思い出すな。」そう言われると、現実に戻った。
彼は神が助言にきてくれたのだと思った。以来、女について自体を考えることをやめた。
すると、不思議な夢を見るようになった。
黒人と白人が入り乱れてパーティをしている中で、黒人の男性から「Hey Jap. お前も来れたのか」と歓迎された。
そこは人種差別もなく、皆が皆を尊重しあった天国のような世界だった。
そこでパーティに加わり、まさしく夢のような時間を過ごした。そしてイギリス人風の女性から「またおいで。」と言われると目が覚めた。
(なんだただの夢じゃねえか)彼は現実に戻ったことに絶望した。
だが女性が出てきても犯さなかった自分に開放の時は近いのではないかと思った。
そうしてまた耐え難いほどに長い時間が過ぎ去るのを待ち、電気が消えた。彼は期待と不安で眠ることができなかった。
夜明け頃になると自然と意識が遠のいた。
そこは戦後の日本を思わせる風景で、皆あくせくと働いていた。こちらを見て立っている女の子に「今って西暦何年?」と訊ねると元気な声で「1990年だよ!」と返ってきた。
自分が生まれた年と同じだった。私は生まれ変わることができたのだと嬉しくなり、働いている皆に向けて「僕もここで働かせてください!」と頭を下げた。
すると皆驚いた顔をして手を止め、おじさんから「おめえはここにいちゃなんねえ」と言われると目が覚めた。
(またただの夢かよ。)彼は絶望した。それから毎晩、意味のありそうな夢を見て、女も犯さなかったが置かれた状況は一変もしなかった。
彼は夢を見た瞬間から、これは夢だと自覚できるようになった。次第に、夢の中の世界こそが自分の居場所であり、現実こそが悪夢に過ぎないと感じるようになった。
だが、必ず訪れる悪夢に地獄を感じられずにはいられなかった。救いのない現実から、彼は神の存在を否定するようになった。
(神がいるならば、そろそろ私を解放してもおかしくない)と考え、やはり神はいないのだと確信した。
それから、毎晩のように見ていた夢を見ることがなくなり、気づいた時にはもう朝だった。
彼は神を否定したから夢を見なくなったのか、やはり現実に神はいるのか、いるならばなぜ私は・・・。と答えのない問答を繰り返した。
なかば諦めた様子で通りかかった職員に「肉が食べたいです。」と声をかけた。
職員は嬉しそうな顔をして「時間まで待ってね。」と答えた。
(私はまた罪を犯すのか)と彼は思った。彼にとって命を食らうということは罪であり、弱肉強食の世界に嫌気がさして今のような状況になったことを思い出した。
(ここで食べたらまた繰り返しだ。)と思い彼は運ばれてきた食事に手を付けず、寝たふりを続けた。
職員は好きなタイミングで食べていいと食事を置いて行ったが、彼の体感時間で10時間程過ぎ去った後、「やっぱり食べないのね。」と職員が食事を取り下げに来た。
(この地獄さえ、この無限にも等しい時間という地獄さえ乗り切れば天国へ行ける・・・。)彼はそう思っていた。
その後、彼は天国とは一体どんな場所なのだろうと考え始めた。(やはりあの時見た夢の世界こそが天国なのだろうか。だとしたら、あんな場所までたどり着けるのだとしたら、今地獄にいるのも仕方がない。)と彼は現実をありのままに見ることにした。
現実で彼がやらなければならないことはたった一つだけ、「時間を忘れる」ということだけだった。
そこで彼は「ただ有るだけ」になろうと決めた。一切の思考を止め、朝も夜もなく、ただ横たわっているだけになれば救われるのだと彼は思った。
だが事はそう簡単ではなかった。どうしても押し寄せる退屈、窮屈、煩わしい医師の診察、関わってくる人々皆が邪魔をする敵に見えた。
しかし彼は無反応を貫いた。
そうして、何の反応もないただ呼吸を繰り返すだけの人間が一体できあがった。
時折浮かべる笑顔の理由を知る者もいなくなった。