【壬申の乱勃発は、夏か冬か】

それでは万葉集199番歌はなぜ壬申の乱の戦闘を冬に設定しているのであろうか。古田武彦は日本書紀の壬申の乱が6月から7月にかけて行われたと記述されていることを真として人麻呂作歌を疑った。

しかし逆に日本書紀の記述が偽であると考えることはできないだろうか。

古田が言うように壬申の乱が始まった6月は太陽暦だと7月である。

梅雨の終わりか梅雨明けが早ければ盛夏である。

日本書紀によると、6月24日に吉野を出た天武一行は鈴鹿近辺に達したところで日没となり、雨が降り始めて寒くなったので家を一軒燃やして暖をとったという。

この時期の気温は多少気温が下がっても家を燃やすほどではなく、家の中に入って雨をしのげば十分なのではないだろうか。

家一軒燃やさなければ耐えられない寒さになるのは、太陽暦で言えば11月下旬乃至12月に入ってからであろう。

つまり日本書紀が記す壬申の乱も実は冬の戦いであったのではないか。

日本書紀は何らかの理由で壬申の乱を夏の戦いにする必要があり、戦いの月日を書きかえたのではなかろうか。

 

【日本書紀はなぜ壬申の乱を6、7月に設定したか】

それではなぜ日本書紀は壬申の乱が行われた時期を6月、7月に設定したのだろうか。

結論から言うとはっきりしたことはわからないというしかない。

万葉集199番歌のように冬から春にかけての時期にすることに日本書紀の編纂者は不都合を感じていたということであろう。

なぜか?

想像でしかないが、天智天皇が12月3日に崩御していることと関係があるのではないか。

天智紀10年10月17日条には、病床に就いた天智が天武を呼び皇位後継者に指名するが天武が罹病を理由に辞退して出家する状況が描かれている。

天武即位前紀では、天智から皇位継承の意思を伝える(「鴻業を授く」)ために病床に呼ばれた天武は天智の意図を疑いながら臨んでいる。

天武の疑念が記されていない天智紀とではニュアンスが異なっている。

両者の関係は必ずしも良好だとは言えなかったということが推測できるが、病床を辞した後に天武が出家して吉野に隠遁する流れに変わりはない。

日本書紀では天智が息を引き取った6ヶ月後に壬申の乱が勃発する。

もし万葉集199番歌のように壬申の乱が冬から春にかけて行われていたとすらならば壬申の乱によって天智が戦死したことも考えなければならないだろう。

天武と持統の父親である天智を敵対関係に描きたくないために、日本書紀編纂者が壬申の乱を6月勃発とする時期設定を行った可能性を考えることもできるのではなかろうか。

あくまでも仮説である。