ウイキペディアより
日本による戦間期のポーランド人孤児救出
日本は戦間期、765人のポーランド人の孤児をシベリアから助けたことがある。
当時、多くのユダヤ系ポーランド人孤児らもシベリアに搬送されていた。
ポーランド人聖職者の訪日
また、カトリック教会聖職者のマキシミリアノ・コルベは、日本で布教活動を行い「けがれなき聖母の騎士会」を日本に導入した。同会の出版社「聖母の騎士社」や、コルベに続いて布教に訪日したポーランド人宣教師によって創設された仁川学院、聖母の騎士高等学校は21世紀を迎えた現在も存続している。
コルベと共に、布教のために訪日したゼノ・ゼブロフスキー修道士は、長崎で原爆に被爆したのちも日本に留まり、戦災孤児など貧民救済に尽力した。
同じポーランド人の教皇ヨハネ・パウロ2世は1981年に訪日した際、病床のゼノに面会し、功績を称賛した。初めて訪日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はポーランド人であり、東京では「世界最初の原子爆弾の傷跡がいまだにはっきり残るこの国で、『あなたがたに平和』と言うキリストの言葉は、特別に力強く響きます。この言葉に私たちは答えなければなりません」と日本語で挨拶し、広島市と長崎市を訪問。
広島においては「戦争は死です。生命の破壊です」と世界に平和の構築を訴えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
こちらのサイトとてもわかりやすいです。 抜粋紹介させていただきます。
日本軍部は、集団的自衛権として、シベリアのポーランド人難民孤児を赤軍・ロシア人兵士から助けた。

善意の架け橋―ポーランド魂とやまと心
- 作者: 兵藤長雄
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1998/03
- メディア: 単行本
戦後の平和憲法では、個別的自衛権で国内の自国民を助けても国外の自国民は助けられない。
ましてや、集団自衛権で他国の子供を助ける事はできない。
現代の護憲派や反戦平和市民団体は、自衛隊を憲法違反として廃絶を求め、自国民を海外で保護する事に猛反対している。
戦後の日本国家は、国家の責任を放棄して自国民はおろか他国の子供さえ見捨てる。
それが、平和国家日本の偽らざる真の姿である。
如何なる理由でも戦いを拒否すると言う事は、人を助けず見捨て、人を殺さない為に人を見殺しにするという事である。
現代の日本人とは、そう言う冷血で薄情な人間である。
現代の日本人にポーランド孤児の救出を懇願しても、現代の日本人は確実に拒否して見殺しにする。
2015年の戦争法案反対派は、集団的自衛権を否定し、「他人は他人、自分は自分」で「自分は自分を助けるが、自分が他人を助ける事はしない」と世界にハッキリと宣言した。
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ポーランド孤児は、日本の国旗「日の丸」を敬意を持って掲揚し、愛着を持って日本の国歌「君が代」を歌い、安心感をもって日本軍旗「日章旗」「旭日旗」を仰ぎ見る。
韓国人・朝鮮人は、例外である。
日本軍は、シベリアのユダヤ人達をも救出した。
ポーランド人孤児やユダヤ人難民を助け出そうとして戦死した日本兵は、靖国神社の軍神として祀られた。
靖国神社は、世界から軍国主義の象徴として憎悪され、悪魔的な戦争讃美神社として完全否定されている。
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ポーランド人孤児とユダヤ人難民のマルクス主義者からの救出は、天皇・皇室が人種差別に反対という人道主義の立場に立っていたからなし得た快挙であった。
天皇制度を打倒しようとした共産主義者は、非人道的大虐殺を繰り返していた。
アメリカなどの連合軍は、ポーランド人孤児やユダヤ人難民の救助を日本軍に押し付けて撤退した。
何時の時代でも日本は貧乏くじを引かされ多大なる被害を出したが、称讃される事も、感謝される事もなく、非難され、中傷され、罵声を浴びた。
天皇・皇室・軍国日本は、憎悪の的である。
そして、靖国神社も。
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1772年 第一回ポーランド分割。
1793年 第二回ポーランド分割。
1795年 第三回ポーランド分割。
ポーランド王国は、国防の要である軍事力と経済力を失い、隣国のロシア帝国、
プロシア王国(後のドイツ帝国)と
オーストラリア帝国の三国に分割されて消滅した。
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亡国の民となったポーランド人は、祖国回復の手助けにするべく、それぞれの国籍を取り、それぞれの君主に忠誠を誓い、それぞれの国の為に戦い功績を挙げて、ポーランド人としての実績を積み重ねていた。
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ロシア帝国は、未開地・シベリアを流刑地と定めて政治犯や反ロシア的諸民族を送り込んで強制労働を課していた。
ロシア皇帝は、国内のポーランド人のロシア化を強いる為に、強制的にロシア語教育の徹底とロシア正教への帰順を進めた。
ポーランド人カトリック教徒は、ロシア正教への改宗を拒絶した。
ロシア帝国のポーランド人は、祖国奪還の為にロシア帝国に対して幾度も叛乱を起こしていた。
ロシア帝国は、皇帝の命令に従わないポーランド人を処刑するかシベリア等に流刑とし、死ぬまで使役を強要した。
シベリア流刑は、生きて帰れない死出の旅であった。
ロシア帝国は、シベリア開発の為にユダヤ系国際金融から資金を得て本格化するに当たり、新たな労働力として専門技術を持ったポーランド人らをシベリアに強制移住させた。
多くの家族が、父親や夫を追ってシベリアに移住した。
20世紀初頭に掛けて、酷寒の地・シベリアに、ポーランド人が15万人~20万人が住んでいた。
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1914年 第一次世界大戦勃発。
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ポーランド戦線のロシア軍は、ドイツ軍の猛攻で撤退するにあたり、「ドイツ軍には何も渡さない」として焦土作戦を実行した。
ロシア軍は、駐屯地の都市や村落を全て焼き払い、ポーランド人を強制的にシベリアなどの後方に送り、従わない者は女子供に関係なく全員虐殺した。
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赤軍は、ポーランド人を見付け次第に虐殺し、女性は強姦してから殺害した。
シベリア各地で、共産主義者による虐殺が行われていた。
シベリア各地で生活していたポーランド人家族は、難民として戦争の混乱を逃れて東に逃避したが、多くの者が逃げ場を失って極寒の地を彷徨い、餓死、病死、凍死する者が続出した。
欧米の新聞は、ポーランド人婦女子約600人が乗った列車が燃料不足で立ち往生して、全員が凍死した事件を報じていた。
親を殺され子供や親とはぐれた子供の多くが、シベリアに取り残され、寒風吹きすさぶシベリアの荒野を飢餓と闘いながら放浪を余儀なくされた。
この子供達が、国際問題化したポーランド孤児(シベリア孤児)である。
赤軍は、所詮は「反革命分子の家族」であるとして助けずに死ぬに任せて放置した。
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1918年 ウラジミール・レーニンは、ロシア皇帝が借金した負債は新政府とは無関係であるから返済しないと宣言した。
アメリカ、イギリス、フランスなどは、貸し付けた金を踏み倒される事は許さないとして、ソ連への派兵を決断した。
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1919年 ソ連は、暴力的共産革命を輸出する為にコミンテルン(第三インターナショナル)を結成した。
日本は、パリ講和会議で、人種や国籍による差別を設けてはならないとする「人種差別禁止の条項」を国際連盟規約に加える事を提案した。
アメリカは、16ヶ国中11ヶ国が賛成したにもかかわず、重要事項は全会一致の原則によるとして不採用にした。
外交官・渡辺理恵は、19年にウラジオストク領事として着任し、21年まで領事の傍らウラジオストク日本派遣軍軍軍政部の仕事も勤め、ポーランド孤児救済事情に深く関わった。
3月 日本は、ポーランドと国交を樹立した。
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3月1日 3・1独立運動(万歳事件)。朝鮮各地で、朝鮮人による反日暴動が起きていた。
日本政府は、暴動を拡大させる事は危険であると判断し、軍隊を派遣して武力鎮圧した。
欧米各国は、日本軍による非人道的犯罪があったとして日本を非難した。
朝鮮人テロリストによる凶悪犯罪が、日本や中国で続発した。
朝鮮人は、反日活動を活発化させていた。
5月4日 5・4運動。中国人共産主義者らの扇動で、全土で日本製品ボイコット運動が起きる。
過激な反日派中国人活動家らは、中国在住の日本人を襲撃して暴行事件や日本商店を襲って略奪事件を起こしていた。
朝鮮と中国で、反日暴動が起きていた。
日本は、国内外で窮地に追い込まれていた。
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9月 ウラジオストク在住のポーランド人アンナ・ビエルケビッチ女史は、シベリアに取り残された同胞を助ける為に「ポーランド救済委員会」を組織した。
ポーランド救済委員会は、アメリカ赤十字社シベリア派遣団の支援を受けて、アメリカ・シカゴのポーランド人組織ポーランド国民機関から資金援助を得てウラジオストク郊外にび孤児収容施設を設置してポーランド孤児を収容した。
ポーランド政府は、日本政府に対して、ウラジオストクに退却しているポーランド部隊の本国帰還への支援を依頼した。
日本政府は、ポーランド部隊を大連、長崎を経て祖国へ帰還するのを助けた。
赤軍は、新生ポーランドとは戦闘状態にない為に、ポーランド人孤児をシベリア鉄道で本国に送る便宜を与えていた。
ポーランド児童救済委員会アンナ・ビエルケビッチ会長は、シベリアに派兵している各国の赤十字に、ポーランド孤児の窮状を訴えて救援を懇願した。
10月 外国の赤十字は、自国軍がシベリアから撤退すると共に、ポーランド孤児への支援を終了して帰還した。
中国上海の中国赤十字社も、世界協調方針から、西洋諸国が見捨てたポーランド孤児を助けては世界で孤立する恐れがあるとして、救済要請を断った。
ビエルケビッチ会長は、シベリアに残っているのは日本軍にポーランド孤児の救援を求める事を提案したが。
敬虔なカトリック信者であるポーランド人は、江戸時代にポーランド人宣教師がサムライによって磔にされたこと理由に反対した。
ヤクブケビッチ副会長は、ビエルケビッチ会長提案を支持した。
「僕はシベリア流刑囚の息子ですから、日露戦争にいったポーランド人を知っていますが、日本人を悪くいう人はいませんよ。この春、ウラジオストックまで逃げてきたチューマ司令官たちを助けて、船を出してくれたのは、日本軍じゃありませんか」
ポーランド孤児だけでも生きて祖国へ送り返すを最優先にすることとして、会長のアンナ・ビエルケビッチ女史を日本政府に送る事を決めた。
同時に、シベリア各地で取り残されているポーランド孤児達の救出を依頼した。
日本軍シベリア派遣軍は、全部隊に対してポーランド孤児達の保護を命じた。
ウラジオストック在住のポーランド人有志達は、我々はこのままシベリアで死んでもいいが、せめて子供達だけでも祖国ポーランドへ帰しそうと必死になっていた。
バツワフ・ダニレビッチ「街には、飢えた子どもが溢れていましたね。その子達は、日本の兵隊さんを見ると、『ジンタン(仁丹)、クダサイ。ジンタン、クダサイ!』と、せがむのです。日本の兵隊さんは、やさしかった。私も、キャラメルを貰った事があります。孤児の中には空腹をまぎらそうと、雪を食べている子供もいました。シベリアはもう、まったくの地獄でした」
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本音を言えば。日本軍は、労働者・農民などで組織されたパルチザン部隊(遊撃隊)による遊撃戦に苦戦して、ポーランド孤児達の救助どころではなかった。
赤軍は、各地の集落を戦闘拠点とし、住人を革命兵士として狩り出して戦場に送り込み、戦う事を嫌って従わない者は反革命分子として容赦なく処刑していた。
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7月22日 敦賀港に上陸したポーランド孤児達は、粗末な服を着て、哀れなほどやせ細った青白い顔の子供達であった。
ヤクブケヴィチ副会長「日本人は日本内地において我々を援助したばかりでなく、シベリアにおいてもまた等しく援助してくれた。異郷の地であるシベリアにおいて日本人は日本陸軍の保護の下にシベリアの奥地からウラジオストクにいたるまで、ある時は陸軍の自動車をもって、ある時は汽車をもって、我が児童を輸送してくれた」
7月6日までに計五回、ポーランド孤児達が上陸し、住民はその余りにも衰弱した身体と親を失った境遇に同情して進んで介抱に手を貸した。
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1921(大正10)年 ワシントン会議開催時点で、シベリア出兵を続けていたのは日本だけであった。
一部の欧米の報道機関は、日本軍がシベリアに駐屯しているのは領土的野心があるからであるとして、日本を激しく非難した。
全権であった加藤友三郎海軍大臣は、会議において、日本は領土拡張の野心はない事を証明する為に条件が整い次第、日本も撤兵する事を公式に約束した。
参加国は、国益の為に日本を封じ込める事を最優先として、シベリアのポーランド孤児の窮状には関心がなかった。
ポーランド孤児の救済は、日本軍の撤退が完了するまでの期間とされた。
シベリアのポーランド児童救済委員会と日本軍シベリア派遣軍は、限られた時間内でより多くのポーランド孤児を救出する為に、赤軍やパルチザン部隊の猛攻を避けながら探索地域を広げた。
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親と離れ一人で長い放浪を続けていた為に、着ている物はボロボロで靴を履いている子供はほとんどいなかった。
そこで日本赤十字社は、一人ひとりに衣服、肌着、靴、靴下などを新調し、さらに食事の提供や菓子、果物を支給しました。
4月6日 ビエルケヴィチ会長は、日赤本社病院を行啓される貞明皇后を、ポーランド孤児達と共に出迎えた。
貞明皇后は、日赤病院で治療を受けているポーランド孤児達を親しく接見し、3月29日に退院したばかりの3歳の女の子(ゲノヴェハ・ボグダノヴィチ)を抱きあげて優しく話しかけた。
「ゲノヴァハさんといわれるのね。ゲノヴァハさん、貴方は、一人ではありませんよ。貴方が、ここに来られたのは、貴方のお父様やお母様が、我が身を犠牲にして御守りくださったからなのですよ。この度も、入院なさったのですね。でも、貴方はこうして、無事に退院する事ができました。だから、一所懸命に生きて行くのです。決して、命を粗末にしてはなりますんよ。大事になさい。そして、健やかに生い立つのですよ。それが、貴方を守ってくださったご家族と、この病院の方々の願いなのですから」
ポーランド児童救済委員会は、日本人が噂通りに子供を分け隔てなく大事にする事を目の当たりにして日本を選んだ事に安堵し、さらなるポーランド孤児を日本に送る為に捜索活動の範囲を広げた。
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3月 ポーランド児童救済会長アンナ・ビエルケビッチ女史は、再度日本赤十字社に、今なお、シベリアで救いを待つ孤児がアムール、ザバイカル並びに沿海州各地方を合わせて2,000人に上る事を訴え、孤児救済を懇願した。
ポーランド児童救済委員会の調査。
ウラン・ウデ‥291人
チタ‥ 558人。
スヴォボードヌイ‥415人。
ハバロスク‥330人。
ハルビン‥222人。
ウラジオストク‥250人。
日本政府は、財政が苦しかったが、子供の命は金では買えないとして救済する事決めた。
6月23日 内閣総理大臣となった加藤友三郎は、閣議で、国際公約に従って10月末日までに沿海州からの撤兵方針を決定し、翌24日に日本政府声明として発表した。
6月30日 日本赤十字社は、臨時常議会を開いてポーランド孤児400人と付き添い40人を大坂に受け入れる事を決定した。
8月7日 第2次ポーランド孤児救済事業。陸軍輸送船明石丸は、ポーランド孤児107人と付き添い11人を乗船させて敦賀港に入港した。
8月7日から29日まで3回に分けて、1歳から15歳までのポーランド孤児390人と付添い39人の計429人が、大阪府東成郡天王寺村(現大阪市阿倍野区旭町の大阪市立大学医学部附属病院)の大阪市公民病院付属看護婦寄宿舎に収容された。この寄宿舎は新築2階建てで未使用のため清潔で、庭園も広く環境の整った所でした。
ポーランド孤児達は、上陸するや着ていた衣服を熱湯消毒され、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷり入れて貰って感激した。
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新聞報道などで、ポーランド孤児達の事が一般に知れ渡るや、国内では治療や理髪、慰安会、救援金、慰問品の寄贈などのボランティアの申し入れが殺到した。
到着したポーランド孤児達は、日本国民の多大な関心と同情を集めた。
無料で歯科治療や理髪を申し出る者。
学生音楽会は、慰問に訪れた。
仏教婦人会や慈善協会は、子供達を慰安会に招待した。
慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、そうした日本人が後を絶たなかった。
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765名の孤児達は、2年間にわたって日本で治療と療育を受けた。
日本赤十字社には、貞明皇后からの御下賜金や日本全国からの多数の寄付金が寄せられていた。
収容先では、子供達を慰める為に催されるいろいろな慰安会に出席させ、時には市内を見物したり動物園や博物館へ連れだし、より多くの日本人と親しく交流できるように配慮した。
何処に行っても、誰に会っても、日本人で人種差別的に孤児達を軽蔑して蔑む者はいなかった。
また。ポーランド人の宗教を尊重し、宗教的規則に配慮して、孤児達に毎日の朝食前と就寝前の祈りをさせていた。
多神教の日本人は、ポーランド孤児に神道への改宗を強要しなかった。
子供の躾を厳しく行う日本人は、ポーランド孤児の境遇に同情しても甘やかす事はせず、親御さんにかわって帰国しても大丈夫なように規律ある生活をさせた。
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ヨーロッパの新聞は、日本は子供がよく笑う「児童の楽土」と報じた。
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保護されていた765人のポーランド孤児達は、日本で病気治療や休養した後に、第1次はアメリカ経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランドした。
日本赤十字社は、預かった責任として一人も不幸にせずに保護した765名全員を送り届けた。
別れを惜しみながらも、孤児達は「君が代」と「ポーランド国歌」を涙ながらに歌い、「アリガトウ」「サヨウナラ」と叫んだ。
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副会長ユゼフ・ヤクブケヴィッチは、「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない。」と題した礼状を日本に送った。
「日本人は我がポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本は我がポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、我が不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れる事はない。
我々の児童達をしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児達の服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最も綺麗な衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供達に与えようとした。こんな事は一度や二度ではない。しばしばあった。
ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、我々は何時までも恩を忘れない国民である事を日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童の為に尽くしてくれた事は、ポーランドはもとよりアメリカでも広く知られている。(←それは無いと思う・・・)
ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っている事をお伝えしたい。最後に日本人にいたい。記憶せよ、我らは何時までも日本の恩を忘れない。そして、我らのこの最も大なる喜悦の言葉ではなく、行為をもって、何れの日にか日本に酬いる事あるべしと」
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祖国ポーランドに帰還を果たした孤児達は、養護施設に保護され、それを祝う為に首相や大統領までが駆けつけた。
この施設では日本への恩義を忘れない為に、毎朝、校庭に生徒達が集まり、日本の国旗「日の丸」を掲げ、日本の国歌「君が代」を合唱し、日本の童謡を習った。
学園祭には、日本という国を身近に意識する為に着物を着て遊んだ。
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1928年 孤児として日本に滞在していたイエジ・ストシャウコフスキ少年は、17歳の青年となって、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となった。
極東青年会は、ポーランドと日本の親睦を主な目的とした組織で、日本文化の素晴らしさをポーランドに紹介した。そして、日本に行くための資金を貯めた。
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だが、帰国したポーランド孤児達は、成長して第二次大戦の巻き込まれた。
イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。
急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。
イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、ドイツ兵達は呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。
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1941年 杉原千畝は、ポーランド出身のユダヤ人難民を助けるべく、敦賀、神戸経由して安全地帯に逃げられるようにビザ発給した。
昭和天皇は、ユダヤ人難民の保護を希望していた。
A級戦犯の東條英機や松岡洋右達は、ユダヤ人難民の脱出に便宜を与え、太平洋戦争勃発するや上海へと移住させて日本軍の保護下に置いてナチス・ドイツから守った。
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2002年7月12日 今上天皇・美智子皇后両陛下は、ポーランドを訪問され、ワルシャワの日本国大使公邸で開かれるポーランド大統領夫妻主催の午餐会に臨まれた。
両陛下は、大広間に入られるやメインゲストの大統領夫妻に挨拶される前に、大広間入り口正面にいた3名の元孤児のもとに自ら歩み寄り親しく声を掛けられた。
「お元気でしたか」
元孤児であった老人達は、口々に助けてくれた日本への感謝の言葉を述べた。
「日本万歳、ありがとう」
「日本の御蔭で、今の私達があります」
「日本はまるで天国のような所でした」
「自分達を救い出してくれた、美しく優しい国、日本にぜひとも御礼がいいたい」
「両陛下にお会いした事を、孫達に語ります」
「今後数ヶ月間は、両陛下に会えた感激でぼんやりして過ごす事にありそうです」
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元ポーランド人孤児達にとって、日本の天皇・皇后両陛下は命の恩人以上に、敬愛すべき特別な存在であった。

日本・ポーランド関係史
- 作者: エヴァパワシュ=ルトコフスカ,アンジェイ・タデウシュロメル,Ewa Palasz‐Rutkowska,Andrzej Tadeusz Romer,柴理子
- 出版社/メーカー: 彩流社
- 発売日: 2009/05
- メディア: 単行本
http://d.hatena.ne.jp/nisikiyama2-14+kurigonn-1957/20160420/1461161104