思想は必ずしもその作者そのものの姿ではない。「戦争と平和」を書いたトルストイは道徳的な平和主義者としてではなく、破戒者としての実生活を送った。「神は死んだ!」と宣言してアンチクリストの思想を語ったニーチェは、実生活ではキリスト教の戒律を一歩も乗り越えられなかった。「則天去私」の思想を語り始めた漱石はお金に困って胃潰瘍を悪化させて亡くなった。つまり、言ってることとやってることが真逆なのである。

では実生活から乖離して生まれた思想は絵空事か?そうではあるまい。実生活からは隠された部分で人は思想を語り、思想が真理を語り、その真理が実生活を超えて、深く魂に大きな影響を与えることは事実である。実生活が思想の真理を生み出すのではない。実生活に中に隠された人の魂が真理を探り当てるのである。だから真理は実生活における理性によって即座に「理解すること」は可能であるが、人の「魂の回心」を与えるまでにはそれ相応の時間がかかる。以前にもここで書いたが、「理解すること」から「魂の回心」に至るには「超越」が必要である。しかしその時は満を持して必ず訪れる。

 

長い間、自己嫌悪、自己否定の気持ちを拭い去れずにいた。

なぜだろう。刷り込みか。抑圧か。あらゆるネガティブな感情はすべて自分自身に向けられ、私の周りで起こった悲しい出来事も、腹立たしい出来事も、自分が悪いんだと自分の心を責めさいなんだ。

幼い頃から自己犠牲の観念に取りつかれてきた。自己を犠牲にすることが人を愛すること、世界を愛する方法のように感じていた。人を愛せないのは、世界を愛せないのは自分が未熟だからと思った。

私の愛も、克己心も、向上心も、その自己嫌悪、自己否定から生まれたニヒリスティックな意識の裏返しであった。そして何度もここで述べてきたが、私の中のニヒリズムの克服、平たく言えば、生き甲斐の発見は物心ついてからの私の人生のテーマであった。

私が家族を持ち、子供ができた時、ニヒリズムは克服されたと思った。しかし、家族のために生きる、子供のために生きる、それは自分の命の責任転嫁であった。

 

「自分の命の重さ、生きようとする意志」。それを得心しなければニヒリズムの克服はあり得ないことはニーチェの思想で理解はしていたが、得心できず、実際の私は益々ニヒリズムに陥っていった。

5年前、映画『るろうに剣心』を観て、剣心の中に私と同じようなニヒリズムを見つけた。そして3年前、この映画の最終回で、剣心がニヒリズムを克服するのを観て、心が震え、涙した。しかしその時見た真理を得心し、私の「魂の回心」が訪れるにはまだ大きな間(ま)があった。

その後、私は「自分の命の重さ、生きようとする意志」を待ち望みながら、大きな間(ま)が埋まることを願いながら、それでもやはり諦めながら、深いニヒリズムを漂い続けた。

 

 

※そのシーンのダイジェストを作成しました。