私がアメブロを始めたのは2011年の終わりのことだ。

 

その年3月、東日本大震災があった。長男の中学の卒業式の日、私は彼の卒業式に行き、とても愉快な気持ちで会社に向かった。会社に着いた直後に地震が来た。会社の壁がミシミシといってひび割れたりしたが、会社にケガ人は出なかった。その後、私も帰宅難民になり、翌日の昼過ぎに自宅にたどり着いた。家族はみな無事だった。自宅は埋立地にあったため、自宅周辺の液状化はひどく、道路が異常に盛り上がり、全ての電柱が倒れていた。しかしそんなことは大したことではなかった。

テレビから次々と東北の惨状の映像が送られてきた。信じがたい光景だった。原発が爆発したと聞いた。メルトダウンを起こしたとの噂が立った。私は直ぐに部下の若い女子社員を福岡の実家に帰した。関西以西に身よりのない女子社員は私の実家に行かせた。

そんなことをしながら、私はいつも通り仕事をした。東北が大変なことになっているというのに、生死にかかわる状況というのに、私は何事もないかのように仕事をした。

 

10月に母が末期がんを患っていることが分かった。8月には元気に私の自宅に来ていたのに。余命も長くて3か月と言われた。私は飛んで帰省した。母が入院している病院に行くと、8月に見た母とは別人のように変わり果て、痩せて、老けて、生気がなくなっていた。私は衝撃を受けた。理性を失いかけた。誰(父、姉、妹)も母に告知出来ないというので、私が母にガンを告知するために帰ったのだが、どのように告知したらよいか、分からなくなった。母はガンという病気に特別にネガティブな意味を感じていたから。主治医と1時間ぐらい打ち合わせをした。母が生きる希望を失わないよう、私は慎重に告知した。しかし母はあっさり「そうかね。仕方ないね。」と素直に自分のガンを受け入れた。父が、姉が、妹が泣いた。私は怒りで一杯になった。

それから1週間置きに、日曜日に日帰りで帰省して母を見舞った。母を勇気づけた。日曜日の始発で帰省し、終電で自宅に戻った。日曜日夕方、母と別れる時、いつもこれが最後じゃないかと思った。その時の母の顔と気持ちとを引きずりながら、新幹線の狭い座席に6時間座ることが次第に苦痛になっていった。

 

もう一つ、私は個人的な問題を抱えていた。ずっと以前からの問題であったが、先送りして来た。しかし先送りできない状況まで追い詰められた。

 

12月頃になると、私の身体は次第に変調を来していった。精神も。眠れない日が続いた。1週間か、2週間か。市販の睡眠薬を一度に何錠ものんだが、全く眠れなくなった。

眠れないのだが、起きることも出来なくなった。会社も休みがちになった。いや、ほとんど会社に行けなくなっていた。電車に乗ることが出来なくなったから。だから、母を見舞いに帰省することも出来なくなった。

 

その頃だ。私はアメブロに出会った。なぜアメブロだったかは覚えていない。それまでの私はブログを書く人のことを軽蔑していた。自己満足な感じがしたから。しかし私はブログを始めた。最初は、自分のこの先が長くないことを感じ、日々感じたことの覚書として、そして私が生きていたことの証として、「この世のメモ」として、誰も読むことがないであろうブログに言葉を刻み始めた。

すると不思議なことに、私のブログに読者がついた。こっわ!なんで!その方からメッセージが届いたので、恐る恐る開けてた。受験を目前にした18歳の女子高生だった。どんな内容だったか覚えていない。その子は受験の状況などをメッセージとして送ってきた。彼女は美大を目指していたようだ。私は彼女を思い切り応援するメッセージを送った。勉強も教えた。何も出来なくなった自分が誰かの応援が出来ることが喜びだった。

そうしているうち、次第に私のブロクの読者が増えていった。とても不思議なことだ。私の書く内容は極めて内省的な個人的なもので、他人が読んで楽しいものではなかったから。

 

ブログを始めて1年半、2013年6月に母がホスピスに入院した。私は母と2日間、濃密な時間を母の病室で一緒に過ごした。余命3か月と言われた母は3年間生きた。3年間ガンと闘ったのだ。

母の人生は十分に充実した人生だと思った。もう十分だ。あとは安らかに、穏やかに、最期の時を迎えるのだろうと感じた。

そして私も、私自身ももう十分だろうと思った。もう十分だ。十分生きた。そう思った時、自分のブログを閉じることを決めた。読者になってくれたブロ友一人一人にお礼のメッセージを送った。別れを告げた。そして、どこかでまた会いましょう。

 

 

昨年末から今年の年始の冬休み、訳あって古いパソコンのデータを復旧させた。すると断片的ではあるが、昔閉じたブログの断章が発見された。ブログの草稿を書いたメールもいくつか発見された。いづれもデータが破壊されていて、タイムカウンターが正確ではない。

ただ、およその時間軸はわかった。

 

私が閉じたブログの最初の投稿は以下の通りだ。しかし、これが全文なのかどうか、断片なのか、分からない。誰だか知らない人の祈りの言葉だった。なぜ私がこの言葉を投稿したのかわからない。思い出せない。その人の名も、その言葉も。

初めて聞く言葉のように思うのだか、しかし私にはこの祈りが今も私の祈りのように思える。

 

 

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『ニーバーの祈り』

 

O GOD, GIVE US
SERENITY TO ACCEPT WHAT CANNOT BE CHANGED,
COURAGE TO CHANGE WHAT SHOULD BE CHANGED,
AND WISDOM TO DISTINGUISH THE ONE FROM
THE OTHER.

AMEN.

 

 

神よ 、与えたまえ。
変えることのできないものについて、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

変えることのできるものについては、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
そして、英知を、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを
識別する英知を与えたまえ。

アーメン。

 

 

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※2017年2月27日 改訂「ニーバ→ニーバー」「知恵→英知