こんな夜更けにバナナかよ 3 | 野村孝博のブログ

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 昨日書いた、鹿野が打ち破ろうとしていた日本の信仰についてですが、「ケア(介護または介助)の社会化」という言葉で説明されていました。「親元で施設でもない場所に、自分たち(障害者)の居場所をどう切り開いてゆくのか。家族だけに問題を押し付けるのではなく、しかも施設での隔離収容でもない形でどうやってケアを『社会化』してゆけるのか。自立をめざす重度障害者たちは、こうした問題を初めて、日本の社会や行政にハッキリと突きつけたのである。」とありました。この問題は高齢化社会を迎える日本においても重要なテーマになるとありましたが、至極その通りで、「ケアの社会化」が実現できることによって、高齢化社会を乗り越えて行けると思いました。とはいえ、具体的にどうするかなんて言うのは、まだまだ頭にありませんが。

 

 「鹿野はわがまま」と書きましたが、「他人による24時間介助を必要とし、ベッドからほとんど動くことの出来ない鹿野にとって、自分の欲求を口に出し、介助者にものを頼むことが『生きること』であり、自己の存在を他に示すほとんど唯一の手段である」とありました。そして「鹿野には、『お世話をかけて』『申し訳ない』という態度があまり感じられない」、「対介助者との関係において、まさにそうした態度(それが当然の権利なのだとう態度)を獲得してゆくことが、鹿野にとっての自立への挑戦であり、日々の闘いでもある。」とありました。ここだけでは今一つ理解できなかったのですが、このあとに「その背後には、つねに介助者に対して『ワガママ』がいえず、自分の気持ちや感情を抑え込んだまま、遠慮しながら生きざるをえない施設や病院にいる障害者たちの姿がある。」とありました。なんていうか、我々のような健常者が、障害者のお手伝いをするときに、いやそうした経験はほとんどありませんが、たとえば困っている人を助けようとしている時に、自分のやろうとしていたこと以上のことを望まれると、「ワガママだ」とか「ずうずうしい」なんていうことを思ってしまうのではないかと思います。でも、そういた気持ちと言うのは、なんていうか「助けてやっている」みたいな、ちょっと恩着せがましいような心が、自分の中にあるからそうなってしまうのではないかと思うようになりました。タイトルを聞いた時には、「夜中にバナナ食わせろなんて、よく言うわ」なんて思っていましたが、読み進めて行くうちに、そんな気持ちが恥ずかしくなってきました。とっても考えさせられており、現在も整理がついていないような状態ですが、また更に続きます。