稚内市 宗谷三百年記念之碑 | 北海道応援のブログ

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2016年度の修正を(5月まで終了、4月分を修正中)現在行っております。

住所 稚内市大字宗谷村字宗谷77番地(宗谷漁業協同組合敷地内)
稚内観光協会

稚内の由来は、アイヌ語のヤム・ワッカ・ナイ、「冷たい水の流れる沢」という意味である。
宗谷の由来は、アイヌ語の「シヨウヤ」(海獣の止まる磯の丘)この磯の丘にアイヌコタンがあったことから地名にした。他にも、宗谷岬の北にある弁天島は「ソーヤシュマ」(岩礁の海岸にある島)と呼ばれていた。また、「ソ(ショ)・ヤ」(岩礁の多い海岸)と呼び、これらが「ソーヤ」の由来とされている。現在の宗谷は「ウエン・トマリ」(悪い・入り江)というところで、うっかり舟を入れると岩礁で舟を壊すところだった。
国道238号線宗谷岬から稚内市街方向へ約7.0kmほど左手。

宗谷の歴史は古く、1582(天正10)年、松前藩領となり、1685(貞享2)年、松前藩が宗谷場所を開設している。
宗谷村のはじまりは、1879(明治12)年、7月1日に戸長役場が設置されたことによる。当時、宗谷は宗谷村・泊内村・猿払村・稚内村・声問村・抜海村の中心地で、戸長役場と共に宗谷・枝幸・利尻・礼文郡の宗谷外三郡役所も置かれていた。
宗谷は、北方の要衝として栄え、重要視されてきた地域であったが、遠浅で岩礁の多い宗谷海岸が敬遠されたことと、当時唯一の交通機関であった船舶の大型化・蒸気船化などもあり、対岸の稚内村に賑わいが移りつつあった。
1888(明治21)年、9月に戸長役場・郡役所・警察署・郵便局が稚内に移り、1955(昭和30)年、2月1日宗谷村を編入し、今日に至っている。

碑文
貞享2年(1685年)稚内市の母村「宗谷」に松前藩が
交易の場所を開設して本年で300年を迎えた。
厳しい朔北の大地に挑み、幾多の苦難を克服し
今日の宗谷の礎を築いた先人達の足跡と偉業に
感謝すると共に、この宗谷の地が更に躍進する
ことを希求し、ここに記念の碑を建立する。
昭和59年8月6日建立
稚内市長 浜森辰雄

宗谷場所の請負は、村山伝兵衛が1750(寛延3)年~1755(宝暦5)年頃まで請負い 。その後近江屋商人の浜屋与三右衛門・天満屋専右衛門・材木屋七郎右衛門らが1756(宝暦6)年~1760(宝暦10)年まで請負い。1761(宝暦11)年頃~1774(安永3)年までは松前家直支配(事実上は恵比須屋半兵衛が介在し請負と変わらなかった)。1775(安永4)年~1782(天明2)年は村山伝兵衛。
村山伝兵衛が宗谷場所の請負をする以前、1739(元文4)年頃から取引をしていたようで、当時の利尻は家老松前内記が一ヵ年100両を上納する御料場所で手船を派遣して直営していた。この頃礼文島には交易船は行かず、礼文に居るアイヌの人々は宗谷か利尻に出向き交易していた。宗谷には藩主手船が派遣され、商場交易を直営した。当時の宗谷は和人の船が通行する最終地点でもあり、オホーツク沿岸や、樺太のアイヌの人々は交易の為宗谷に集まってきていた。
村山伝兵衛が宗谷場所を請負うまでは、宗谷には夏に商船一隻しか派遣されなかった。交易品はアイヌが自由に生産された物が多かった。村山氏が宗谷場所を請負ってからは、海鼡(ナマコ)漁の増産を図るため「海鼡漁事心得候者」を宗谷に派遣し、海鼡桁引き網という新技術を導入し、1792(寛政4)年に幕吏によって行われ、宗谷アイヌの人々は所有する船と運上屋での交易で得た海鼡引き道具を使い従事した。当時のアイヌの方々は使役されているわけではなかったが、生産した産物は決められた低価格で、必ず運上屋交易に出さなければならなく、前借で縛られ、秋に差引勘定されていた。
宗谷海峡を挟んでの交易は、樺太アイヌの宗谷海峡の渡海、あるいは宗谷アイヌの樺太への渡海で行われ「山靼切・十徳・青玉」など中国からの絹織物や官服がもたらされた。この頃軽物買上のために領主から派遣されていた役人は上乗役と船中目付と呼ばれる足軽だった。この上乗役の役割の一つにオムシャを行い、場所で守るべき法令を申し渡し、場所でのアイヌの交易を監視することも併せて行われていた。
1775(安永4)年飛騨屋久兵衛が宗谷場所を15ヵ年の契約で請負う。宗谷場所には番船と夏商船の二艘が派遣された。
1789(寛政元)年クナシリ・メナシの戦いで飛騨屋が宗谷場所罷免され、村山伝右兵衛が請負う。
1790(寛政2)年松前藩は「蝦夷地改正」を届け出て、東西蝦夷地場末の場所には、志摩守の手船を派遣する。場末蝦夷地場所の稼人は松前の百姓をあてること。アッケシ・ソウヤ・その他の最寄りの場所に勤番所を設け役人を配置する。武備を固め、烽火台を設置すること。これにより宗谷に勤番所を設置する。
1792(寛政4)年には村山伝兵衛・張江甚兵衛に直差配を実施する。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は宗谷場所を罷免され、小山屋権兵衛が請負う。このとき村山氏の差配場所である宗谷・斜里・樺太・厚岸・霧多布・国後場所の引上げ、預かり船の返還、町年寄・下代役の罷免。住居の家屋敷から蔵、その他持ち屋敷・地面・問屋株に至るまで全て取り上げられ没落した。これには村山氏の繁栄を妬む人の画策ともいわれている。
1800(寛政12)年松前藩は宗谷場所を直営。柴屋長太夫が宗谷場所の仕入れを任ぜられる。

1806(文化3)年~1807(文化7)年にかけて、ロシア通商使節のニコライ・レザノフの海軍がロシア皇帝の許しなく樺太や北海道の漁村で略奪を行ったり、番屋が襲われて放火されたりという事件が頻発していた。そのため幕府は襲撃に備えるよう、1807(文化4)年に蝦夷地(北海道)全島幕府直轄(天領)とされ、江戸幕府は仙台・会津・南部・秋田・庄内の各藩に蝦夷地警備と出兵を命じた。このとき南部藩は692名、津軽藩500余名、秋田藩591名、庄内藩319名が出兵され、それぞれ警備についた。この頃択捉島を襲ったロシアの船が現れ、日本商船を襲って貨物を奪い船を焼き払うという事件も起っている。このために宗谷、オホーツクの警備を強化するべく、すでにサハラ・エトロフに勤番所を設けていた津軽藩にも増員が掛けられ、さらに330名の津軽藩士が宗谷警備に送られ、うち100名が斜里警備の為送られてきた。宗谷警備に付いた津軽藩だったが、多くの藩兵が水腫病で亡くなる。宗谷では津軽藩兵詰合の記念碑が、斜里では津軽藩士殉難慰霊の碑が建立されている。
1808(文化5)年には会津藩が津軽藩と宗谷警備を交代する。宗谷警備中の会津藩士が次々と病死する。12月には南部藩・津軽藩に東西蝦夷地一円の永々警固が命じられ、津軽藩が西蝦夷地の警固に当たるが、1810(文化7)年には宗谷の越冬警備を止め、増毛まで退避し、越年所を設け越冬をする。
西蝦夷地を松前藩から引き継いだ幕府は、場所請負制を継続し、樺太・宗谷・斜里の三場所は藩の直捌きだったが、樺太は栖原角兵衛、阿部屋喜右衛門、伊達林右衛門に、宗谷・斜里を藤野喜兵衛、西川准兵衛、坪田佐兵衛が請負っていたが宗谷場所はまもなく西川・坪田が手を引き、藤野の単独となった。
1812(文化9)年には幕府による東蝦夷地の直捌きを廃し、入札によって請負人を決めたため、蝦夷地全てに場所請負制が復活する。西蝦夷地では場所請負人の拠点を運上屋と呼んだが、東蝦夷地では直捌きの名残である会所を踏襲し、諸業務が継承された。
1821(文政4)年全蝦夷地を松前藩に返還し、宗谷場所も松前藩領になる。南部・津軽藩兵の撤退を申し渡す。場所請負制も継承され、藤野が場所を請負う。
1838(天保9)年頃から、請負人はアイヌを酷使するようになる。「やむを得ず夷人を骨の砕けるまでも精をもませつかえば人数だんだん減ずる也。夷人も酋には酒米財をあたへて小夷にははたらくべく申付ける也。弱き者はやむを得ず叱られ責められはたらくゆへ、夜はつかれ臥て、昼は水中にありて不養生ゆへ人減ず」とあるように、アイヌの人々を過酷な漁業労働に使役しアイヌの人々の人口が減少していく様子を伝えている。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が声問に立ち寄り、宗谷から樺太に渡る。このときの宗谷の状況を詳しく紹介している。「夷人小屋十二、三件。役人共モ有ル也。皆うしろの方沢目ニ家居ス。春より秋までは支配人之夷人集り来りて実ニ一都会の如し。我等通行の時は凡二百人も有る様二思われしなり」と書かれている。
1855(安政2)年宗谷場所再び天領となる。松前藩・津軽藩・南部藩には箱館奉行の「要請があり次第出兵せよ」との指令が出る。3月仙台・秋田藩にも蝦夷地警護が命ぜられる。4月西蝦夷地の神威岬以北、北蝦夷地までを秋田藩が警備を行う。陣屋は増毛に設ける。
1856(安政3)年、箱館奉行所支配組頭向上源太郎が宗谷場所を引き継ぐ。松浦武四郎ら、樺太調査のため宗谷を出帆。樺太中部(シツカ(旧敷香、現・ポロナイスク))、宗谷からオホーツク海側、太平洋側をまわって函館と巡る。この年、重い病に倒れる。
1858(安政5)年松浦武四郎が声問川を遡り踏査。
1859(安政6)年宗谷は秋田藩の領下となるが、抜海とノシャップは幕府直轄。
1867(慶応3)年宗谷地方は箱館奉行所の直轄地に編入される。藤野屋の請負は継続する。
1869(明治2)年宗谷は開拓使に属す。金沢藩支配に宗谷・枝幸・礼文を含む。
1870(明治3)年1月宗谷は金沢藩に属す。6月宗谷は開拓使の直轄とする。8月藤野喜兵衛が宗谷場所を返上する。

宗谷地区は、1879(明治12)年和人41名にて開村したのが始まりである。このとき宗谷郡役所と宗谷警察署も設けられた。この頃にはすでに官舎が建ち、商店などもできてきていた。この頃の人口はアイヌも含め、総戸数52戸、269人だった。和人だけだと戸数7戸、41名だった。
1884(明治17)年村岡竹蔵が入植し、1887(明治20)年に宗谷駅逓所が置かれた。取扱人は井上栄七で、官馬5頭、私有馬十数頭を備えていた。井上氏は郵便継立も経営し、1893(明治26)年には宗谷村の総代に抜擢され、1895(明治28)年に学務委員を拝命する。この年山内永吉、黒滝弟次郎、山田半七、松沢友治らが移住してくる。
しかし、この頃の宗谷港は、英国軍艦・樺太からのマス積船などが座礁、破船するなど遠浅で岩礁の多い危険と隣り合わせの港湾であった。このため砂底で破船の危険性が少ないコエトイ沖(現・声問地区)やヤムワッカナイ(現・港地区)の沖合を停泊地とする船が多かった。陸路として通過点だった稚内地区は、海上面の比較的安全な地域として重視されることになる。
1888(明治21)年には、郡役所、戸長役場、警察署、郵便局などその他諸官公庁が稚内に移転する。それに前後してヤムワッカナイ(稚内)地区に移住者が増えた。
1892(明治25)年には、稚内簡易小学校宗谷分校が開校する。1900(明治33)年に宗谷尋常小学校となる。
1900(明治33)年7月宗谷郡稚内村、抜海村、声問村の区域を稚内村と称し1級町村制施行。宗谷、泊内、猿払三村戸長役場を宗谷コタンバに設置する。
1902(明治35)年散在していた宗谷旧藩士の墓を一か所(護国寺の隣接地)に祭祀する。その後1928(昭和3)年6月宗谷旧藩士の墓を山上に移転する。1956(昭和31)年11月宗谷旧藩士の墓を山上より旧護国寺跡地に移転する。
1903(明治36)年宗谷郵便局が設置され、郵便と電信を扱う。宗谷村に村医である浜田医師が務める。
1907(明治40)年宗谷護国寺がウエントマリ川西岸に移築される。宗谷漁業組合が設置され、ホタテ・ナマコ・ホッキなどの漁業権を設定しながら操業した。1909(明治42)年4月宗谷村は二級町村制を施行し、初代村長は森井清氏が就任した。
1924(大正13)年猿払村が宗谷村から分村し村制施行する。翌年の国税調査では総戸数544戸、人口は2903人だった。
1933(昭和8)年には宗谷役場が改修し完成する。
1941(昭和16)年9月宗谷村各部落名を改称し、アイヌ語地名を改めた。
1948(昭和23)年に宗谷地区の一部に電灯が灯る。
1955(昭和30)年2月稚内市が宗谷村を編入する。
1956(昭和31)年11月宗谷旧藩士の墓を山上より旧護国寺跡地に移転する。 1970(昭和45)年宗谷厳島神社が稚内市の指定文化財となる。この頃から東浦漁民が主体となり、ホタテの養殖を始める。
1984(昭和59)年宗谷300年祭・宗谷厳島神社200年祭を挙行。
1994(平成6)年復元したサンタン船を渡樺の地に浮かべ第一回林蔵まつりを第二清川にて開催する。


1296(永仁4)年、日持上人宗谷より渡樺の伝説がある。この頃和人の勢力が宗谷地方に及ぶ。
1582(天正10)年、松前藩領となる。
1603(慶長8)年、宗谷に役宅を設置し、利尻、礼文、唐太を司る。
1635(寛永12)年、佐藤嘉茂左衛門、蠣崎蔵人、村上掃部左衛門を宗谷珊内より樺太巡察に派遣し、ウッシャム(サハリンの最南端・クリリオン岬(日本統治時代の名称は西能登呂岬付近)に渡る。
1651(慶安4)年、蛎崎伝右衛門主命により樺太を巡視する。
1685(貞享2)年、松前藩が宗谷場所を開設する。樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた。
1689(元禄2)年、藩士蛎崎七之丞が宗谷を巡視する。
1706(宝永3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1750(寛延3)年、村山伝兵衛、宗谷場所を請負う。
1752(宝暦2)年、ソウヤ場所から樺太場所が分立する。
1756(宝暦6)年、浜屋や近江商人が宗谷場所を請負う。
1761(宝暦11)年、宗谷場所が松前藩の直轄となる。
1765(明和2)年、松前の商人恵比須屋半兵衛が宗谷場所を請負う。
1775(安永4)年、飛騨屋久兵衛が宗谷場所を請負う。
1781(天明元)年、宗谷に厳島神社建立。(現・内市宗谷村宗谷、宗谷歴史公園内)
1782(天明2)年、飛騨屋支配人が厳島神社に鰐口を奉納する。
1785(天明5)年、幕府の樺太探検隊長庵原弥六一行、宗谷で越年するも、翌年3月に病死する。(墓碑現存)
1787(天明7)年、フランスのラ・ペルーズの艦隊が世界周航の途中、宗谷海峡を通過、樺太が島であることを確認。
1789(寛政元)年、最上徳内らが宗谷を巡視。飛騨屋が宗谷場所をやめ、村山伝右兵衛が請負う。
1790(寛政2)年、松前藩は、宗谷に勤番所を設置する。
1796(寛政8)年、村山伝兵衛は宗谷場所を罷免され、小山屋権兵衛が請負う。
1800(寛政12)年、藤原時畝が、宗谷にて弥六の墓碑を建立する。松前藩は宗谷場所を直営。柴屋長太夫が宗谷場所の仕入れを任ぜられる。
1801(亨和元)年、奉行松平忠明、宗谷を巡視し、台場を築く。奉行一行の磯谷則吉が宗谷に滞在する。高橋壮四郎が宗谷場所を管理する。
1806(文化3)年、遠山金四郎、村垣左太夫樺太を巡視して宗谷に滞在。
1807(文化4)年、幕吏近藤重蔵ら宗谷を巡視。宗谷場所幕府直轄領となる。津軽藩宗谷警備に付くが、多くの藩兵が水腫病で亡くなる。
1808(文化5)年、最上徳内、松田伝十郎が宗谷に来る。松田伝十郎は樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。間宮林蔵ら、樺太探検のため宗谷を出帆。会津藩が津軽藩と宗谷警備を交代する。宗谷警備中の会津藩士が次々と病死する。
1809(文化6)年、間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、呼称を北蝦夷地と正式に定め、宗谷に戻る。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献し、北蝦夷地詰を命ぜられる。山丹人との貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
1810(文化7)年、藤原義行鋳造の釣り鐘を宗谷護国寺に奉納する。宗谷の越冬警備を止め、増毛まで退避越冬をする。
1821(文政4)年、全蝦夷地を松前藩に返還し、宗谷場所も松前藩領になる。
1823(文政6)年、厳島神社に藤野家船頭の松本金蔵らが石鳥居、宗谷番人達が石灯篭を奉納する。
1824(文政7)年、宗谷支配人嘉吉らが厳島神社に手洗鉢を奉納する。
1832(天保3)年、藤野喜平衛が厳島神社を改築する。
1846(弘化3)年、松浦武四郎が声問に立ち寄り、宗谷から樺太に渡る。
1855(安政2)年、宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。
1856(安政3)年、箱館奉行所支配組頭向上源太郎が宗谷場所を引き継ぐ。松浦武四郎ら、樺太調査のため宗谷を出帆。この年クワヘヒル(ストーブ)が役宅につけられる。
1858(安政5)年、松浦武四郎が声問川を遡り踏査。
1859(安政6)年、宗谷、秋田藩の領下となるが、抜海とノシャップは幕府直轄。
1867(慶応3)年、宗谷地方は箱館奉行所の直轄地に編入される。
1869(明治2)年、宗谷、開拓使に属す。金沢藩支配に宗谷・枝幸・礼文を含む。
1870(明治3)年、1月宗谷、金沢藩に属す。6月宗谷は開拓使の直轄とする。8月藤野喜平衛が宗谷場所を返上する。
1871(明治4)年、7月松本十郎が宗谷を調査する。栖原角兵衛が宗谷外四郡の漁場を受け持つ。
1872(明治5)年、宗谷支庁設置、開拓判官大山重が主任となる。
1873(明治6)年、宗谷支庁を廃し、留萌支庁の管轄となる。
1874(明治7)年、開拓使雇技師ライマンが稚内地方を巡視する。
1875(明治8)年、3月宗谷に開拓使出張所を置く。樺太千島交換条約締結。樺太原住民841名を稚内に移住させる。
1876(明治9)年、1月宗谷郵便局を設置。
1879(明治12)年、7月宗谷に郡役所が置かれ宗谷郡となる。宗谷村に戸長役場設置し稚内市の開基となる。
1880(明治13)年、3月宗谷郡役所開庁する。
1885(明治18)年、宗谷村尻臼に灯台設置、日本郵船会社小樽・稚内間に定期航路を開く。
1888(明治21)年、宗谷郵便局を稚内郵便局に改称。郡役所、戸長役場、警察署、郵便局など、その他諸官公庁が稚内に移転する。
1891(明治24)年、宗谷測候所閉鎖となる。9月枝幸村開村となる。
1892(明治25)年、声問神社創建する。
1893(明治26)年、10月杖苫内駅逓所設置する。
1895(明治28)年、更喜苫内に入植者が入る。
1897(明治30)年、郡役所を改め、宗谷支庁を開設。
1900(明治33)年、7月宗谷郡稚内村、抜海村、声問村の区域を稚内村と称し1級町村制施行。宗谷、泊内、猿払三村戸長役場を宗谷コタンバに設置する。12月稚内灯台設置される。
1901(明治34)年、稚内村を稚内町に改める。11月夕来駅逓所を設置する。
1902(明治35)年、散在していた宗谷旧藩士の墓を一か所に祭祀する。宗谷岬に海軍望楼所設置する。7月勇知神社創建される。増幌に市島、福沢農場開設。幕別に大竹農場開設する。12月山下通2に稚内町役場新築落成する。
1903(明治36)年、福沢桃介が福沢農場に牧場を開設する。これにより増幌地区に移住者が増加。
1906(明治39)年、小樽、稚内、樺太定期航路を開設。
1907(明治40)年、宗谷護国寺がウエントマリ川西岸に移築される。
1909(明治42)年、4月宗谷村は二級町村制を施行する。幕別神社創建される。
1911(明治44)年、5月山火が延焼し、稚内町724戸・宗谷村71戸・その他諸官庁、学校、病院等消失する。
1912(大正元)年、秋田木材会社が声問で自家発電を始める。宗谷支庁庁舎新築落成する。樺岡(声問村字樺岡)に宮城県開拓者集団入植する。
1913(大正2)年、秋田木材会社が声問発電所を設置し、稚内にはじめて電灯がともる。勇知に埼玉県団体が入植する。上声問・沼川に開拓者が多数入植する。11月更喜苫内駅逓所設置される。
1917(大正6)年、5月岐阜団体が曲淵・沼川に入植する。6月福島団体が曲淵に入植する。相馬団体が曲淵・沼川に入植する。
1919(大正8)年、川西(声問村川西)に開拓民入植する。8月上声問駅逓所設置される。
1920(大正9)年、川南(声問村川南)に開拓民入植する。曲淵にて水稲試作する。稚内築港工事着手する。
1921(大正10)年、村井北部鉱業所、声問石油鉱場設立。上勇知に開拓民入植する。
1922(大正11)年、曲淵に伊藤農場を開設する。村井石油会社が増幌で採油事業を開始する。稚内運送会社設置する。曲淵・沼川の地名が誕生する。11月鬼志別~稚内(現在の南稚内)間を延伸開業。宗谷線(天北線)開通。11月宗谷線を宗谷本線に改称。曲淵神社創建する。
1923(大正12)年、稚泊連絡船運行開始。
1924(大正13)年、北見線開通(現・宗谷本線)、稚斗連絡船運航開始。猿払村が宗谷村から分村し村制施行する。沓形村(利尻郡)が一級町村制施行する。
1925(大正14)年、稚内にタクシーが走る。坂の下に中丸牧場を開設する。7月秋田木材会社が稚内に発電所を設置する。10月秋田木材会社の声問発電所を閉鎖する。
1926(大正15・昭和元)年、7月稚内発電所を建設し、秋田木材は稚内から離れる。稚泊連絡船対馬丸ノシャップ沖で座礁。9月天塩線(音威子府~幌延~稚内間)全通。
1928(昭和3)年、5月声問岬に浮標灯を設置する。6月宗谷旧藩士の墓を山上に移転する。12月稚内~稚内港間を延伸開業。稚内港駅開駅(現・稚内駅)。
1930(昭和5)年、4月天塩線を宗谷本線に編入し、音威子府~浜頓別~稚内間を分離し、北見線(後の天北線)に改称。
1932(昭和7)年、国費にて声問川河口の築設工事に着手する。7月沼川~幌延間の拓殖軌道敷設工事を着手し、翌年完成する。8月歌人斎藤茂吉が稚内に来て木谷旅館に投宿する。
1935(昭和10)年、11月声問貝塚・クサンル竪穴郡が北海道史蹟に指定される。12月文部省が宗谷護国寺を史蹟に指定する。9月興浜南線が開通する。
1936(昭和11)年、宗谷港築港工事に着手する。宗谷炭礦汽船会社が天北炭田発掘に着手する。7月興浜北線が開通する。
1937(昭和12)年、1月稚内測候所を設置。
1939(昭和14)年、2月稚内駅を南稚内駅に改称(同時に稚内港駅を稚内駅に改称)。
1941(昭和16)年、9月宗谷村各部落名を改称する。
1942(昭和17)年、10月北海道配電会社、声問火力発電所設置。
1945(昭和20)年、8月樺太居留民引揚船稚内に入港。米軍稚内に進駐。
1949(昭和24)年、4月稚内市制施行、稚内市となる。
1955(昭和30)年、2月宗谷村を編入する。
1956(昭和31)年、9月稚内空港建設工事着手。11月宗谷旧藩士の墓を山上より旧護国寺跡地に移転する。
1957(昭和32)年、稚内測候所気象台に昇格。
1958(昭和33)年、7月間宮林蔵渡樺出航の記念碑を建立する。8月間宮林蔵胸像を建立する。
1959(昭和34)年、2月曲淵稚内炭鉱閉山を宣言。5月稚内空港開港する。8月稚内港中央埠頭起工する。10月東京大学が宗谷村清浜のオンコロマナイ遺跡発掘調査行う。
1960(昭和35)年、7月南極観測樺太犬記念碑建立。10月声問沖灯標設置する。
1961(昭和36)年、4月北見線を天北線に改称。宗谷岬に日本最北の地碑を建立する。10月樺太犬慰霊塔建立する。
1963(昭和38)年、7月幕別の字名を恵北に改称する。8月抜海先住民族遺跡を調査する。氷雪の門、九人の乙女の像建立。
1964(昭和39)年、2月三井沢宗谷炭鉱閉山
1965(昭和40)年、9月稚内新駅舎完成。
1968(昭和43)年、7月宗谷岬の日本最北の地碑を建て直す。ノシャップ寒流水族館開館。
1971(昭和46)年、ノシャップ米軍基地閉鎖発表。
1973(昭和48)年、稚内空港定期便就航。
1974(昭和49)年、利尻礼文サロベツ国定自然公園が利尻礼文サロベツ国立公園となる。青少年科学館完成。
1975(昭和50)年、郷土資料館設置。
1978(昭和53)年、にしん資料館完成。稚内沖海底石油ボーリング開始。
1979(昭和54)年、船員保険保養所「宗谷パレス」完成。
1980(昭和55)年、日ソ友好会館完成。探検家間宮林蔵の立像建立。東洋一を誇る稚内港北防波堤ドーム全面改築工事完成。
1982(昭和57)年、宗谷岬展望台完成。
1983(昭和58)年、大韓航空機撃墜事件発生。宗谷黒牛の生産を開始する。
1984(昭和59)年、2月天北線全線の貨物営業を廃止。
1985(昭和60)年、大韓航空機事故の祈念碑「祈りの塔」完成。
1987(昭和62)年、稚内空港がジェット化。
1988(昭和63)年、世界平和の鐘、子育て平和の鐘が宗谷岬平和公園に設置。「動物ふれあいランド」が空港公園に完成。
1989(平成元)年、5月天北線廃止に伴い、代替輸送バス運行開始。そうや竜ふるさと歴史館完成。
1991(平成3)年、宗谷丘陵展望休憩施設「ゲストハウスアルメリア」完成。
1992(平成4)年、映画「南極物語」で主役の樺太犬を演じた、犬のタロが死亡。声問川大曲遺跡の発掘調査開始。
1994(平成6)年、大沼野鳥観察館完成。
1995(平成7)年、サハリン定期航路就航(稚内港~コルサコフ(旧大泊)間)。
1998(平成10)年、風力発電施設稼動。「タロ・ジロ里帰り展」開催。
1999(平成11)年、サハリン定期航路再開。
2000(平成12)年、サハリン州考古学者ら15名、丸木舟で宗谷海峡横断。富士見地区の石油天然ガス基礎試錐「チカップ」本格的な掘削開始。
2004(平成16)年、宗谷丘陵の周氷河地形が北海道遺産に認定される。
2005(平成17)年、国内最大規模の風力発電「宗谷岬ウィンドファーム」(57基)が稼動開始。
2007(平成19)年、稚内メガソーラー実証実験施設の起工式挙行。稚内副港市場開業。ラ・ペールズ顕彰記念碑が建立される。
2008(平成20)年、国際・国内フェリーターミナル完成。
稚内市史、稚内市史第二巻参考