■「自覚するインサイダー」として
敗戦直後、有沢は、幼い娘の死をきっかけに日記(1945年9月~12月)を認(したた)めている。
それは、急転しながら混乱を続ける社会の鋭敏な観察記録になっていて印象的である。
「敗戦日本のみじめさをハッキリ認識し、そこに至らしめた勢力に対して国民が憤激するようでないと真のデモクラシーは生まれない。
デモクラシーは気力ある国民のみが享受しうる政治である」
(9月24日)
「今日日本の思想家、言論人、政治家は右翼も左翼もすべてが左に向き、我れ先きに左に左にと先き走ってゐる。
この空すべりの潮流の中において自分はどこに位置すべきか。
否どこに位置して物を云ふべきか。
……嘗(かつ)てのやうに自分たちは左翼的進歩的の筆者ではなく、むしろ中庸の地位に位する執筆者となるのではなからうか。
自分の現在の日本の進み方について抱いてゐる思想から云へば左へ左へと先き走る現下の思潮からみて、さういふことになりさうである」
(10月13日)
「自分のスタンドポイントをどこにおくか……むしろ保守派の地位にあって自由主義の上すべりを慎みたい。
……進歩を促進する保守派でありたい」
(10月19日)
1945年11月に東大への復帰を果たした有沢は、以降、日本経済の再建にも全力を傾注する。
この時期の提言としては傾斜生産方式(石炭・鉄鋼両部門中心に資金・資材を集中投入する経済計画)が著名だが、有沢の全仕事から眺めれば、これも一小部分に過ぎない。
それほどに、彼の活動は精力的である。
おそらくそれは、「自覚するインサイダー」としての意志に支えられたのだろう。
1956年、有沢は東大を定年退官した。
この時の最終講義で、有沢は、「戦後日本資本主義の新たな岩盤を貫き通すボーリングのような、鋭く透徹した研究」と「一つの研究がそれに基いて、つぎつぎと新しい多くの研究をよび起すというようなパイオニア・ワーク」の実現を、「若い研究者諸君」に呼びかけた。
この後も、旺盛な研究・執筆活動を展開しつつ、法政大学総長・石炭鉱業調査団団長・原子力委員会委員長代理などを務めた有沢の姿から判断すると、この呼びかけの対象はその人自身でもあったように思われる。
【主要参考文献】
■有沢広巳『学問と思想と人間と』
(毎日新聞社、1957年、のち『有澤廣巳の昭和史』東京大学出版会、1989年所収)
■長岡新吉『日本資本主義論争の群像』(ミネルヴァ書房、1984年)
■有沢広巳「歴史の中に生きる」(『有澤廣巳の昭和史』東京大学出版会、1989年所収)