■安保改定
まず岸内閣は、安保改定への布石として、日本の立場の強化をめざす東南アジア歴訪や将来の政治的混乱をにらんだ警察官職務執行法(警職法)改正などにとりくんだ。
外交面では比較的順調だったが、内政面では警職法改正失敗に象徴されるように、社会からの反撃にしばしば直面した。
この過程で、東条内閣閣僚・A級戦犯容疑者という岸のもつ負の印象が人々の記憶に呼びおこされていく。
次に岸内閣が直面した壁は、自民党内の錯綜した派閥争いだった。
反主流派からの攻勢をうけて、内閣は幾度となく動揺をみせる。
政局の展開を微視的に眺めれば、岸内閣最大の弱点は、国会登場から4年弱で首相の座に就いた岸に、余裕のある党内運営を行うだけの基盤が不足しがちだった点になるだろう。
安保改定過程で批判にさらされた強引な政治手法は、時間の欠如を主因とするリーダーシップの未確立によってもたらされた。
最後に、当時の革新勢力にとって、安保は本来「重い」課題だったことを指摘しておく必要がある。
その情勢が急転するのは、内閣が新条約案承認を衆議院で強行採決した1960年5月19日以降のことである。
全野党欠席下での採決が民主主義擁護の声を一挙に高め、そこへ、東大女子学生樺美智子(かんばみちこ)の国会構内での圧死という事態が重なった。
反岸感情は極度に増幅されて爆発した。
デモとシュプレヒコールの嵐を首相官邸で目のあたりにした岸にとって、アイゼンハワー大統領の訪日中止と内閣総辞職を代償に、参議院の自然承認をひたすら孤独に待つ以外の選択肢は、もはや存在しなかったのである。
実のところ、政治家岸信介の力の源泉については、今なお、ぼんやりとしたままの部分が多い。
そこには同時に、知られざる歴史の陰影も封印されているように思われる。
*樺美智子(1937~1960)
東大文学部国史学科(現在は日本史学科)の学生で、当時、共産主義者同盟(ブント)の主導下にあった東大全学連の真摯な活動家。
1960年6月15日、警官隊との衝突により国会構内で圧死。
【主要参考文献】
■岸信介・矢次一夫・伊藤隆『岸信介の回想』
(文藝春秋、1981年→文春学藝ライブラリー、2014年)
■C=ジョンソン『通産省と日本の奇跡』(TBSブリタニカ、1982年)
■『岸信介回顧録』(廣済堂、1983年)
■原彬久『岸信介』(岩波新書、1995年)
■原彬久『岸信介証言録』(中公文庫、2014年)