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「昭和天皇7つの謎」(『歴史読本』新人物往来社、2003年12月号)の①「ヨーロッパ外遊前の態度に問題があったというのは本当か? 箱入り御教育の結果(1)」です。

 

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ヨーロッパ外遊前の態度に問題があった

というのは本当か?

 

箱入り御教育の結果(1)

 

大正天皇の身近にいる宮中側近や上奏(じょうそう)などのために拝謁する首相らが、大正天皇の病状について日常の政務も執り行えないほど悪いものだと認識するようになったのは、1919(大正8)年夏頃からであった。

 

歩行に困難をきたし、言語に障害がでるといった身体機能の問題だけではなく、認識や判断力に明らかな問題が認められた。

天皇にとって日常的な公務である祭祀・儀礼や、「万機親裁(ばんきしんさい)(国務・宮務・軍務の諸事項について裁可を下して国家意思を確定させること)に支障をきたすようになったのである。

 

まず、天皇の公務のうち、大権の行使に直接的には結びついていない儀礼の場面で、裕仁(ひろひと)皇太子による代行が始められていく。

宮中や内閣関係者が皇太子へ向けた視線には、明治天皇を失っていまだ10年とたっていない時期、明治憲法下の天皇制に早くも生じた暗い影を皇太子に何としても払拭してもらいたいという、重くて切実な願いがこめられていた。

 

では、皇太子の言動が注視されるようになった時、皇太子の態度は人々の目にどのように映ったのだろうか。

 

明治天皇とともに時代を築いてきたといっても過言ではない元老山県有朋(やまがたありとも)・松方正義(まつかたまさよし)・西園寺公望(さいおんじきんもち)、さらには百戦錬磨の政党政治家原敬(はらたかし)などの目に、5人だけの学友と御学問所で静かに勉学に励んでいた皇太子は、新しい時代を託するに足る英明な世継ぎと認識されたのだろうか。