2024/6/23
劇団ユニットせのび公演「夏に冬は思い出せない」11時の部。
6/22.23日の2日間で計4公演。
来月は横浜公演もあるとのこと。
ブログ書いていて、どうしようかと悩んでる。記憶がテーマで忘れると云うワードの解釈の多様性に面食らっている。せのびは時間軸の揺れ動きが特徴の劇団ユニットではあるけど、冬だけ忘れてしまう流行の病を軸にした記憶、忘れるの功罪を突きつけられた気がした。
脳は忘れていても身体は忘れてはいない。自分の都合の悪い事は人間は忘れると云う事でシャットダウン出来るらしいが、身体は正直だ。
この劇を深読みすると、忘れるとリセットはイコールではない。脳は忘れても身体は忘れる事は無い。
「記憶にございません。」意識して忘れて都合の悪い事をシャットアウトする。
実際にはシャットアウトしたつもりで、逃げて先延ばししているだけである。身体は覚えているから、いつまでも何かに追われている違和感を拭い去る事は出来ない。
劇中に二宮金次郎像が、銅像として、石として自体を見守り続ける。金次郎像は忘れる事は無い概念と云う立ち位置。時代に寄って立ち位置は変わっている。戦前と戦後でも。
アルツハイマーによる忘れる。悪夢をシャットダウンする忘れる。都合悪い事は何度も忘れる。
忘れて同じ事を繰り返している。反省していても忘れる。
冬に足跡残しても春が来れば消える忘れる。
人間の忘れる。冬を忘れる人と云う設定から、忘れるの多様な解釈が浮き彫りになっていく。
人が生きる上で大事な忘れる。
人が逃げる手段としての忘れる。
死の恐怖からの解放の忘れる。
反省からの再度の繰り返しのための忘れる。
身体と肌に刻まれた記憶は本能的に忘れると云う方法は通用しない。劇の終盤に、冬の記憶は忘れても、何かの違和感を消し去る事が出来ないと言う事実に如実に現れていた。
忘れる事がない俯瞰の立場の二宮金次郎像に対する。
時代の為政者は、うまく忘れるを利用している。それは石では無く人間だから。
人間が石だったら戦争は繰り返し起きないだろう。繰り返し起きているのは、人間は忘れるからだ。
記憶、忘れると云うものを深く掘り下げた劇。脚本演出出演の村田青葉さんの世界観が更に深化した感。脳みそを使いまくって観たのでオーバーヒート気味。濱口竜介監督の「悪は存在しない」の雰囲気を思い出したりしていた。何故かはわからないけど。
深読みに過ぎないのは承知している。思考を刺激して、忘れるをとことん考えてみる事が出来た。人を刺激させてくれた劇、芝居だったかな。