京都能楽養成会研究公演に行って来ました。普段は若手の研鑽の場でありますが、今回は、舞囃子〈小鍛冶〉の笛が森田保美師の息の秀平師。〈融〉の大鼓が、河村 大師の息の凛太郎師。能〈野宮〉の大鼓が、渡部諭師の三人が若手で、後はそうそうたる方が揃っています。
森田秀平師は、後半になると息がやや続かなくなる所。河村凛太郎師は、キレのある打音ですが、掛け声の息が浅いところ。渡部 諭師は終始落ち着いた強い打音と掛け声でしたが端正過ぎるので呼吸の深さを更に求めたいと感じました。
〈野宮〉について思った事。
能ですが半能型式で、ワキの名乗りから着きゼリフでワキ座下居から街謡ですぐ後場へ。
囃子の越付の一声から後シテが幕離れ。
面は、後から知り合いの情報で、出目満茂の節木増。
シテはややおぼつかないハコビで中へ。
以前よりは身体が効かないのは、見所から観てもわかります。
ただ、じっと佇んでいる存在が能そのもの。序の舞で面が艶っぽくなって行くところ。鳥居の作り物にはいかず、一の松の欄干を境目とした事。
演じるという次元では無く、まるで祭祀に奉仕する祭主と重なって観えてしまいました。
去年の〈関寺小町〉の観能の時も祭祀を重ねて観てましたが、この〈野宮〉も同様でした。
自分だけかもしれないですが、神宮の祭祀の祭主である池田厚子さまが〈野宮〉の幽雪師と重なって観えたのてす。
地謡も、味方玄師地頭のもと、芯のある淑やかさの息の長い音の一筆書きの線が水墨の線を思わせます。
祭祀の次第の中で能が舞われたかのような錯覚に襲われました。
自分の表情が最初の気合の入ったものから、いつしか柔らかくなっていくのを実感しながら観能していました。
演劇という目から観れば、様々な意見があるのかもしれません。
しかし、舞踏家の大野一夫さんの晩年が指先しか動けなかったのに、空間を創り出したように、能も存在だけで空間を創り出す事が出来ると思います。
もちろん誰でもというわけではありません。
片山幽雪が、そのような芸境に至った理由を知りたくなりました。