先日、仕事関係の人とメールでやりとりをしていたら、「○○さんが(わたしのことを)元気かどうか心配されていました。だから、娘さんとワンちゃんと元気にしておられますよと答えておきました」と書かれていました。

 

 

「おお、そうですか!ありがとうございます。今度、実際にお会いするので『元気です!』としっかりお伝えします」と書きました。

 

 

ありがたいことです。

 

 

しかし、ふと気づきました。

 

 

〇〇さんとわたしは会っていたな、と。

 

 

つまり、○○さんはわたしと会わずに「ダンナさんが亡くなってお元気だろうか」と心配してくださったのではなく、わたしと会ってその顔を見て「ダンナさんが亡くなってお元気だろうか」と心配してくださったのです。

 

 

もちろん、ありがたさに変わりなし。

 

 

…が、もしかしたら、というかおそらく、わたしが「疲れて見えた」のではないか。「やつれて見えた」とか「老けて見えた」とか、そういう系統のやつ。

 

 

なんか、そんな気がするー。

 

 

その後、実際に会議で顔を合わせる機会もあったのですが、「元気ですよ!」という機会もない上に、わたしはアレルギーで鼻ズルズル目ショボショボ頭ボンヤリ。最悪のコンディション。心配を払拭するどころか確信に変えて帰ってまいりました。

 

 

その日の帰りですよ。電車の窓に映る自分のオバアサンなこと!ああ、これは、もう、間違いない。老けてやつれて見えたのだ…ションボリ。なんか、もう、自分が老けていく速度をどうすることもできない。ああ、お手上げだあああ。

 

 

 

 

 

 

体調の悪さもあいまって、ちょっと落ち込みました。落ち込みましたが、だからといって、わたしの場合、一念発起して美容に精を出すわけでなく、新しい服を求めてショッピングに行くわけでなく、美容院に行くわけでもありません。つまり、当面なにもする気はないのです。

 

 

であるならば、「気にしない箱」にポイする以外ないよな。うん、ない。

 

 

それに、冷静に考えてみたら

 

 

(1)   わたしを見て「心配した」と言った

(2)   それはつまり外見や雰囲気から判断された

(3)   ということは、わたしは、「元気」でも「やつれて&老けて見える」

(4)   ションボリ

 

 

という流れ、ぜーーんぶ、自分の脳内ストーリーであって真偽のほどはまったくわからないんですよね。

 

 

当初の設定、つまり(1)の段階がそもそもわたしの想像の産物。わたしを「見て」言ったのかどうか、ほんとのところ、わかんないわけです。

 

 

こういう自意識が招く「ちょっと気になること」って「小さなゴミ屑」みたいなもので気になるとついつい集めてしまい、真偽を確認できないゆえに思い込みが強化されて固い塊になって、心を何となく重く占領し、自信を奪っていく傾向があります。いかん、いかん。

 

 

さらに思いました。この会議、不定期ではあるものの、長年足を運んでいますが、いつの間にかメンバーは入れ替わり、若返っているのです。

 

 

「老けて見える」もなにも、もう、まったくもって、わたしはここでは最長老の「老いた人」なのです。それも厳然たる事実。

 

 

自分自身の自然な発奮につながらないことは、もう、ぜーんぶ「気にしない箱」に放り込んで忘れていこう。

 

 

一年一年、老いるのは事実。老けるのも事実。体調によっては、やつれたり、元気なく見えたりするのも、やむなし。逃れがたし。

 

 

でっかい「気にしない箱」を用意しておいてポイポイ入れて(なんなら常に背負っておいて、そのたびにポーンと放り入れて)忘れてしまって、自分では元気はつらつのつもりで生きていくのだ。

 

 

もう、それで、いいよねー。心、平らか。気持ち、晴れやか、が一番大事。

 

 

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