【桶狭間の戦いと簗田出羽守について(根拠資料のご紹介)】 | しのび草には何をしよぞ

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 前回の記事(【沓掛の戦い】天文21(1552)年(19歳))で、読者の方から「(桶狭間の戦いで)信長に今川義元の本陣の場所を報告(したエピソードの)根拠となる史料は何なのでしょうか」とご質問をいただきましたので、記事にしてご返答させていただこうと思います。

 

 当ブログではこれまで、文章の流れが途切れることを嫌い、説明文の根拠資料や様々な学説をなるべく紹介せず、筆者である私が「正しい可能性が最も高い」と判断した内容を記述してきましたが、今回はせっかくご質問をいただいたので、私がブログを書く際に調べている根拠資料について書かせていただきます。

 

【根拠資料】

 前回の記事で「桶狭間の戦いで信長に今川義元の本陣の場所を報告したエピソードを紹介した根拠となる資料は『武功夜話』、『松平記』、『尾張桶狭間合戦記』、『備前老人物語』、甫庵『信長記』、『太閤記』と『桶狭間合戦縁起』の古戦場図、『古跡略図』です。歴史に詳しい方なら、これらの文献の名前を聞いて、信ぴょう性の低いものが多いなと感じられるかもしれません。しかし私は、これらの文献も、全てを切って捨てて良いとは考えていません。創作も混じる一方で、真実も多く含まれています。従って、あらゆる文献との比較の中で、この記事のこの部分は信頼できるのではないか、と記事ごとに細かく検証していくことが歴史学において大切だと私は考えています。

 

【『武功夜話』の記述】

 昭和34年の伊勢湾台風で被害を受けた土蔵から発見された『武功夜話』は、尾張北部の前野村の庄屋、吉田雄翟が、信長に仕えていた一族が残した覚書や聞き取った記録をまとめて江戸時代初期に編纂したもので、織豊期の合戦内容が多く記載されています。内容が細かく記載してあり、貴重な資料ですが、偽書説も根強くある資料です。

 

 偽書とする説は藤本正行・鈴木眞哉共著『偽書「武功夜話」の研究』などを始め数多くありますが、これら偽書説には、いずれも反論可能なものが多く、偽書とするには説得力に欠けるため、私は偽書ではないと考えています。

 

 その『武功夜話』に「如何(いか)ニ治部少輔鉄椎(てっつい)ノ構エトイエドモ、勝ニ乗ズレバ油断アリ。駿・遠・三ノ大兵長途ノ兵ナリ。コノ軍路ヲ止メセシムルノ策、普段野ニアル者ヨクヨク勘考アッテシカルベキト仰セラレ。若(もし)治部少輔クツロギノ期コレアリ候ワバ、天与の機ナリ。簗田弥治右衛門、同鬼九郎トヨク示シ合セ、共ニ相計リテ逐一注進候エ」とあり、ここに簗田の名前が出てきます。

 

 そして、「簗田鬼九郎前ニ鳴海表ニ遣ワシ候。汝等鬼九郎ト示シ合セ、鎌倉道ニ差シ出デ逐一注進アルベク候ト申サレケルトゾ」「簗田鬼九郎スデニ沓掛トイウ処ヘ罷リ出デ候ニ付キ、信長様仰セノ如ク蜂須賀小六、前野小右衛門三州境ヘ出立チ候」として、沓掛の地名が出てきます。その後、「蜂須賀小六、前野将右衛門究竟(くっきょう)ナル細作飛人(さいさくとびにん)等五十有余ノ人数、沓掛トイウ処マデ差シ出デ、今川治部少輔ノ陣所相窺イ細作候由」「利ニ賢シキ長百姓始メ、僧侶、併セ神主の輩ドモ語合(かたら)イ、幸先ヨキ御陣に候ナリ。治部少輔様ノ御機嫌損イ候ヤ、後日難儀相懸リテハ宜シカラズトテ、村長先頭ニ指図イタシ」「蜂須賀党ノ面々、村長藤左衛門兼テヨリ昵懇ノ間柄ニ候ユエ、百姓ニナリスマシ、海道ヘ罷リ出デ今川治部少輔ノ御輿ノ通過ヲ相待チケル」とあります。祐福寺や庄屋藤左衛門はじめ、東郷町の村々が出てきますが、地理的に見てこのあたりの村人を動員したのは妥当と言えます。

 

 ちなみに『武功夜話』の記事の中では、「簗田弥治右衛門、同鬼九郎、親子ノ者」と書かれた箇所があり、2人が別人のように描かれていますが、これは筆者の吉田雄翟が『武功夜話』のこの記事を書く際に参考にした『五宗原記』の記載を誤って解釈したために起きた誤解であり、正確には、簗田弥治右衛門と同鬼九郎は同一人物です。

 

【『松平記』の記述】

 合戦の当日、今川の軍勢に周辺の寺社から今川軍に酒肴の進上があったことは、松平氏創業から徳川家康の事跡を記録している『松平記』という書物にも記載がありますから、『武功夜話』の内容と符合します。

 

 『松平記』は著者不明で、成立年代も分かりませんが、家康の事跡を記す多くの書に見られる家康を美化した傾向が見られないため、比較的早くに成立していたと考えられます。この『松平記』の信ぴょう性については語りたいことが沢山あるのですが、長くなるので省略します。結論として、私は信ぴょう性の高い資料と考えています。

 

 その『松平記』に「永禄三年五月十九日昼時分大雨シキリニ降。今朝ノ御合戦後勝ニテ目出度ト鳴海桶ハザマニテ、昼弁当候処ヘ、其辺ノ寺社方ヨリ酒肴進上仕リ、御馬廻ノ面々御盃下サレ候時分、信長急ニ来リ・・・」との記述があります。記事の他の部分は『天沢寺記』や『水野家々譜』にある『水野勝成覚書』など他の文献と照らして見ても内容が正しいことが分かります。この『松平記』は、織田側から書かれたものではなく、今川方の記録であることから、貴重な証言と言えます。

 

【『尾張桶狭間合戦記』の記述】

 『尾張桶狭間合戦記』は尾張藩士の山崎真人が著したものですが、著述に当たっては山澄英龍の『桶狭間合戦記』を底本として書かれています。山澄英龍は尾張藩初代藩主義直と二代光友に仕えた尾張藩士で、熱田の加藤家など旧家の記録・伝承などをもとに『桶狭間合戦記』を書いており、信ぴょう性の高い資料と考えています。

 

 その『尾張桶狭間合戦記』には「簗田出羽守が支配の忍びの者、沓掛より帰り来りて義元、先刻沓掛より大高へ陣を移さんと、桶狭間山へかかり、押し出さるるといふ、又物見の者帰りて、義元只今桶狭間山の北、松原に至りて(中略)彼地に止めて酒宴を催すと告く、簗田、此由を信長に申(中略)ひそかに山間を軍行して、義元の旗本へ不意に懸って討入り給はば、勝利のみならず大将をも討取るべし」と書かれていて、甫庵『信長記』よりも具体的です。

 

【『備前老人物語』、甫庵『信長記』、『太閤記』の記述】

 『備前老人物語』は作者・年代とも不明ですが、新井白石(1657~1725年)が書き写しているので、比較的古い文献だと思われます。その中に「今川義元との戦の時、簗田出羽守よき一言を申し、信長公大利を得給い、其の場にて沓懸村三千貫の地を賜う。」と書かれています。簗田出羽守が沓掛城の城主だったことは連歌師の里村紹巴『富士見道記』に、永禄10(1567)年4月24日に沓掛を訪れていて「くら(つ)かけといふ城をも出羽守知れる所なれば」と記載していることからも確認できます。

 

 甫庵『信長記』では、作者の小瀬甫庵が「功あって(信長公記に)洩れぬる人(について)、其の遺憾いかばかりぞやと思うままに(ぜひ書きたい)」と述べており、おそらく簗田出羽守のことを書きたかったのだろうと推測されます。甫庵『信長記』には「敵勢ノ後ノ山ニ至テ推マハスベシ。去ル程ナラバ、山際マデハ旗を巻キ忍ビ寄リ、義元ガ本陣ヘカカレト下知シ給ヒケリ。簗田出羽守進ミ出デテ・・・」とあり、信長様の策に同意したとありますが、『備前老人物語』の作者が、それは少し間違いで、同意したのではなく簗田が提案して信長が同意したのだ(前掲のとおり)と解説し、それを指摘された小瀬甫庵が後に『信長記』の誤りを認め『太閤記』では「簗田出羽守能言(よきこと)ヲ申上、大利ヲ得給ヒシカバ・・・」と修正し、「此ノコト信長記ニノセシ所ニ、スコシ異ナル故ニココニ記シヌ」と書いています。

 

【『桶狭間合戦縁起』の古戦場図、『古跡略図』の記述】

 『桶狭間合戦縁起』の古戦場図は、嘉永元(1848)年に古戦場の前で売っていた案内図です。この地図を見ると、二村山の場所に「織田信長陣所」と書かれています。さらに明治時代に古戦場で売られていた『古跡略図』には、二村山の場所に「簗田山是本陣」と書かれています。簗田が沓掛の二村山に細作のための基地を設けていたことが窺われます。

 

 なお、沓掛に現在もある聖応寺には、簗田出羽守のものとされる位牌と墓があります。戒名の「前羽州太守景願宗徳大禅定門」からも、出羽守だったことが読み取れます。

 

 ところで、桶狭間合戦で「簗田政綱」なる人物が活躍したと現在よく言われるのは、明治の陸軍参謀本部が唱えた説が流布したものですが、「簗田出羽守政綱」の名は、合戦から272年後の天保3(1832)年に書かれた『改正三河後風土記』で初めて登場します。詳細は省略しますが、これは、『改正三河後風土記』の編者が広正を政綱と誤解したものです。

 

 以上の根拠から、私は前回の記事で簗田出羽守広正を「桶狭間の戦いで信長に今川義元の本陣の場所を報告して手柄第一と言われ、沓掛3千貫を賜った人物」と紹介しました。