【沓掛の戦い】天文21(1552)年(19歳) | しのび草には何をしよぞ

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信長の生涯を綴っていきます。

 天文21(1552)年、詳細は不明だが、今川義元は尾張沓掛に攻め寄せて信長と戦い、今川方の松平家臣、植村出羽守氏明が討死したという。

 

 植村出羽守氏明は、天文4(1535)年、主君・松平清康が森山崩れで阿部正豊に暗殺された際、正豊をその場で斬っている。また、天文18(1549)年に次代の主君・松平広忠が岩松八弥に斬られた時も、氏明が岩松八弥の首を斬っているため、有名な武将だったようである。

 

 これは推測だが、この沓掛の戦いの際に、沓掛出身の鬼九郎が信長のために細作(諜報活動)を行って手柄を立てたと思われる。鬼九郎は信長と同年代で、もともと名もない僧であったが、源頼朝が鎌倉街道を通過する際に登った沓掛の二村山の出身であったため、信長に見いだされた際に頼朝の幼名である鬼武丸と、義経の仮名である九郎とを合わせて鬼九郎と名付けられたと思われる。

 

 鬼九郎はこの沓掛の戦いで植村出羽守の討ち取りに功あって、後に簗田(出羽守)広正、通称を簗田弥次右衛門と名乗ることになる。後に桶狭間の戦いで信長に今川義元の本陣の場所を報告して手柄第一と言われ、沓掛3千貫を賜った人物と同一人物である。

 

 桶狭間の戦いで活躍したのは簗田(出羽守)政綱であるとよく言われるが、政綱は広正の息子で、広正も政綱も父子とも出羽守を名乗ったことから、江戸時代に人名の混乱を生じたものである。

 

 広正は天文22(1553)年の清須城の戦いでは信長の細作人(スパイ)として斯波家に取り入り、内から清須城を崩壊させることに成功する。

 

 広正はその後、天正3(1575)年に信長の奏請で朝廷から九州の名族である戸次姓と同じ読みの別喜姓を授かり、別喜(戸次)右近政次と名乗って北陸方面軍を率い、加賀の大聖寺城を任されるが、任された兵権が少なかったために一揆勢力に敗れて解任され、再び信長の細作や海賊警備の任に当たっている。

 

 いつのことかは不明であるが、広正は徳川家康を助けたことがあるようで、家康から細作人だった頃の名である鬼九郎様あてとして刀と自筆の書状が送られている(家康の書状には「月日」とあるだけで日付が書かれていない)。

 

 天正7(1579)年6月6日に、丹波攻めで討死した。