起きてすぐに、ホテルの窓からの景色を撮っておきました。大きなホテルの朝食はどこも
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ビュッフェ式です。母さんは座っていて、貢一が適当なものを採ってきました。中国特有の、中に何も入っていないメンパオ(白い蒸しパン)を食べてみたら、中にカスタードクリームが入っていて、オヨヨという感じでした。「これじゃあ、中国じゃないじゃん」とビックリしてしまいました。
旅の二日目(観光の初日)は、西安観光です。最初に向かったのは、郊外にある兵馬俑です。
 
【世界遺産:兵馬俑】
 始皇帝の像がある広場から、近年できたばかりという入場ゲートを潜り、しばらく公園のような敷地を進むと、1号館から3号館まである兵馬俑博物館があります。
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入館前にガイドの憑さんが事前に説明してくれたのですが、通りにくい声質の方で、近くに寄らないと聞こえないのです。今回は24人のツアーですし、お母さんは車椅子なので、今回のツアーではガイドさんの説明は期待できないなと、この時点で早々と諦めてしまいました。冗談を交えて語る話の上手な楽しいガイドさんでしたが、それを享受できたのはバスの移動中だけでした。
今時は耳に掛ける軽量の集音マイクと拡声スピーカーないし無線のイヤホンなどあるのですから、それくらいは用意してほしいものです。
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 1号館に入ると、すぐに兵馬俑の全体が見える場所に出ます。12月のオフシーズンなので、余裕をもって写真を撮れましたが、ハイシーズンだったら、ろくに写真も撮れないような混雑ぶりだそうです。
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兵馬俑は、兵士と馬の俑(埴輪)という意味になります。始皇帝のお墓を守る為に、兵士と馬の埴輪を造って、土の溝の中に並べ、その上に丸太を置きムシロを被せ土で覆った状態が、本来の姿です。俑は本来着色されていたようですが、その色が残っているのは、ごく僅かだそうです。
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2号館、3号館と巡る途中で、おトイレ休憩を兼ねて売店に立ち寄りましたが、その値段がベラボウなので呆れてしまいました。10cmくらいの兵士の模型に350元(6000円)の値札が付いていたのです。そもそもこのようなものを買いたいと思う人は、かなり少ないであろうに、この値段設定は、一般的なマーケット常識から大きく外れているでしょう。愚かと言うしかありません。
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貢一は2000年にもこの兵馬俑に来ていますが、当時は、「ちょっとキモイ」という感じで、来て良かったという感想はありませんでした。今回は、ゆっくりジックリ見ることができたのですが、この兵馬俑は、テレビで見るだけで充分な所だと思います。
 兵馬俑の見学を終わって駐車場へ向かう途中、市街地の中に入って行きました。NHKでも放映されたことがあるという、現地では有名なお爺ちゃんの家に立ち寄る為です。
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名前は聞き取れませんでした。部屋が小さかったので、扉付近から、ちょっと中を覗いてお爺ちゃんの顔を見ただけです。
 
【秦の始皇帝陵】
兵馬俑からバスで少し移動したところにあります。始皇帝陵自体は広大な面積なので、この石のある場所から歩道の先にある盛り上がった陵墓を見ただけです。
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 前回、西安に来た時、タクシー運転手のお兄ちゃんは、「日本人はみんな、始皇帝の子孫だ」と言っていたのですが、日本人全部ではないにしても、その考えは基本的に間違っていないと思います。どちらもユダヤで繋がっているはずだからです。
『史記』には、始皇帝の父親は、当時の大商人、財閥の呂不韋であると書いかれていて、「呂不韋」は「ロフィ」で、ヘブライ語で「癒やし手」という意味になるそうです。呂不韋が父親であるなら、始皇帝は明らかにバリバリのユダヤ人ということになります。
【秦の始皇帝】については、貢一のブログに書き出してあります。
【秦の始皇帝】
【ほんとうのユダヤは日本】
 始皇帝陵の入り口付近には、いくつもの出店があり、ザクロのジュースを売っていました。小さなペットボトルのザクロのジュースを5元(100円)で買って車中で飲んでみました。ザクロはこの地域の特産品で、至る所にザクロ畑がありました。10月が収穫時期なので、ザクロのジュースを飲めるのは、この時期だけだそうです。 
 
【昼食:火鍋】
表に中国的な像や絵のあるお店で、火鍋の昼食です。火鍋といっても、要は、野菜中心のシャブシャブです。辛口の黒いタレが用意されていて、それしかないと思っていたので、お母さんは「辛い、辛い」を何度言ったかわかりません。
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それを聞いていた前に座っていた同じツアーのおばちゃんが、「違うタレを作りましょうか」と言って、ゴマダレと黒酢の混ざったタレを作ってくれました。でも、このゴマと酢の組み合わせって、正直なところ美味しくありませんでした。好意でやってくれたことなので、感謝ではありますが、ゴマダレだけでよかったようです。あくまでも作ってくれたオバちゃんの好みのようでした。
火鍋で体が温まったところで、バスは郊外から市内に戻りました。
 
【今回は行かなかった華清池・碑林・小雁塔】
本当は、兵馬俑や始皇帝陵の近くに「華清池」という楊貴妃に関わる観光地があるのですが、今回のツアーでは、ここには行かずじまいです
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崇神天皇陵のある奈良県柳本で、長岳寺のお坊さんに地名の由来を聞いた時、「崇神天皇を補佐してきた一族の名前に由来するけれど、当時は“柳”ではなく“楊”の字を用いていたらしい」と聞かされていました。つまり“楊貴妃”の“楊”です。
 
始皇帝から「不老長寿の薬を探せ」という命令を受けて日本に来ていたといわれる徐福や、玄宗皇帝に寵愛された楊貴妃に関する伝説は、今でも日本各地に残っているわけですから、菊花紋の墓石がある柳本家の祖先は、中東からシルクロード西安を経由して日本に来ていた可能性もゼロではないでしょう。
 
今回のツアーでは、「華清池」と「碑林」という西安観光の主要ポイントが、意図的に外されているようです。貢一はこの2か所とも、前回の17年前に来ているのでかまいませんが、ツアー会社とすれば、西安に複数回来てもらうために、全てを網羅しないようにツアーを企画しているのだと思います。
 
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前回17年前に来た時の、碑林と小雁塔の写真です。
前回西安に来た本当の目的は、西安の北方にある中国最大の風水スポットである黄帝陵の龍穴を開けるためでした。2000年の11月です。この時から、中国の経済発展が始まったのです。もしも中国が、本気で日本を謀るつもりなら、再び日本のシャーマンさんが出向いて、龍穴を塞ぐことでしょう。
 
 【興慶宮公園】
 6代玄宗皇帝と楊貴妃が暮らした興慶宮を復元した公園だそうです。奈良時代に遣唐使としてここに来て、帰国することなく中国で亡くなった阿倍仲麻呂の記念碑がある公園です。阿部仲麻呂は、ここで玄宗皇帝に謁見したそうです。
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記念碑の側面には、仲麻呂が歌った“望郷の詩”として有名な、
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
の詩が彫られていました。
ここは公園なので、池があり、川があり、中心には沈香亭という大層大きなお宮のような建物がありました。但し、いずれもコンクリート製で、中国的ではあっても本来的な風情は殆ど有りません。
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 この公園には、小規模ながら遊園地のような施設もあり、この日は日曜日だったのでたくさんの人出がありました。日本なら、公園のようなところで楽しむ人はそれほどいないと思いますが、中国人にとっては、今でも公園こそが最良の休息場所なのでしょう。
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 石の地面に、水で習字をしているオジサンたちがたくさんいました。商売でやっているのではありません。達筆を披露したくてやっているようです。ここ西安はとても雨が少ない土地なので、このようなパフォーマンスが可能なようです。
西安では、雨が降ると、「いい天気ですね」という挨拶になるのだそうです。
 
 【絨毯店】
シルクロード貿易の中心的産物である「絨毯」を売る店舗に立ち寄りました。日曜日だったので絨毯を織る職人さんはいませんでしたが、それを見なくても、たいそう労力がかかるものであることは良く分かります。
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店員さんたちは、みな日本語が上手です。写真右上の絨毯の絵を見ながら、当時の商売の様子を聞かせてもくれました。
勉強机サイズの複雑な柄の絨毯が3万円ほどでした。近年は売れないので価格がドンドン下がっているようです。ツアー客の中で、その絨毯を一つ買われた方がいましたが、最初から買う気でお金を用意して来ていたなら、かなりいい買い物ができた事でしょう。
 
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タコな貢一は、最初から買うお金など持ってきていませんから、目の保養に一通り見て写真を撮らせてもらっただけです。
その後は、同様なツアー参加者の方々と、木製の長椅子に座って、お店が用意したお茶をいただきながら過去の旅に関する話をしていました。このようなツアーに参加する皆さんは、誰もが少なからぬ海外旅行体験をしているようです。誰と話をしても、いろんな情報をテンコモリ聞きだすことができます。
 
【西安市内の様子】
 昼間の西安市内には、古都・西安という感じはマルデありません。人通りの多い賑やかな巨大都市という感じです。しかし、夜間になると、中国特有の水引のような形に造られた街灯が赤く光り、昼間は土埃を被った樹木が、下部から緑色の照明に照らされて綺麗に見えるので、やや古都を感じられるようになります。
 昼間、最も目につくのは、レンタサイクルが路上にワンサカあることです。また、西安市内に限らず、バイクはすべて電気バイクのようです。三輪車も電気でした。今年9月に行ったインドのタクシーである三輪のオートリキシャはまだEVになっていませんでしたが、中国は既にバイクも三輪車もEVにシフトしてしまっていました。日本は完全にEV化で後れを取っているようです。
  車に関しては、17年前、西安を走っていたタクシーは、全てスズキの軽自動車、赤いアルトばかりでしたが、今回はそれを全然見ませんでした。それどころか、軽自動車自体を殆ど見ませんでした。
西安は大学の街として計画され、若者を取り込んでいるようです。長安大学など、いくつもの大きな石造りの大学の門を見ました。20代の若者が本当にたくさんいました。西安周辺の高層マンションが空洞化していなかった理由は、このような西安に特有な事情に依っているのかも知れません。
それにしても、バスが走れるような4車線道路周辺は、どこも人がいっぱいで、大きなビルが並んでいました。東京都内でも、これほどビルと人の絶えない広大な都市エリアは、そうそうないと思います。
 翌日に訪れた洛陽の市内状況に比べると、やはり、西安はインフラ投資が集中し、人も集中するよう計画された都市であったことは明白です。それにしても、17年前の西安とは比べようのない、都市の変貌ぶりに驚いていました。
 
 【南門広場】
西安の街を長方形に囲む城壁には、現在27本の道路が貫通しているそうですが、その中の南側中心にある永寧門の広場で、30分間ほど自由散策時間が与えられました。
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17年前は北西側にある玉祥門に登っています。同じ門ではないので、直接の比較は出来ませんが、当時は現在ほど城壁周辺は整備されていなかったと思います。より近代的に観光都市・西安を演出するために、夜間の照明も数多く設置されていたようです。
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城壁に沿ったお堀には、鴨や白鳥が泳いでいましたが、古都を感じさせる風情は全然ありません。側面に土を残して「柳」を植える程度の配慮はあってもいいように思いました。
 
 【徳発長での夕食】
西安観光に来た人は、中心部にあるこの徳発長というお店で、餃子を食べることでしょう。前回もこのお店に来ました。何種類もの餃子が出てくるお店です。
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全部で20種類くらい出てきたでしょうか。全部を並べて写真に撮りたかったのですが、そんなことをしていたら、暖かくて美味しい瞬間を逃がしてしまいます。なので、写真に残っているのは、最初に出てきた普通の水餃子だけです。
中国のレストランは、8人から10人掛けくらいの丸いテーブルが標準です。この時から最後まで、このような様式の食事が続きました。そして、中国料理も大抵辛いのが普通ですから、お母さんは「辛い」という言葉すらなく、こんな顔をしています。
 
 【鐘楼の夜景】
夕食が終わると、オプションの京劇鑑賞に参加する人を劇場で降ろしてから、バスはホテルに戻りました。宿泊しているホテルは、西安の中心にある鐘楼まで一直線に700m程の所なので、鐘楼まで歩いて行ってみることにしました。
もちろん、お母さんを車椅子に乗っけてです。ところが、西安市内は交通渋滞緩和のため、大きな道路に横断道はなく地下道を通るようになっていました。なので、お母さんは自分の足で地下歩道を昇り降りしなければなりませんでした。
鐘楼の周りは、凱旋門の周辺と同じようの、道路が丸くなっています。観光客はこの鐘楼に上ることはできません。あくまでも周辺からライトアップされている夜景を見るだけです。
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鐘楼の下の地下道にはエスカレーターがあったので、お母さんは車椅子に乗ったまま地下道を通って反対側に行ってみました。この時に実感したのが、若者の多さです。渋谷109前の交差点と同じような人だかりです。しかも信号待ちなしで、ひっきりなしに若者たちが流れているのですから、人数は渋谷よりずっと多いでしょう。大学が集まっている都市だけのことはあります。
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周辺に、いろんな小吃(シャオチー:店や屋台で食べる中華の一品料理)あるのはいうまでもありません。食べ物と同じ髪色のお姉ちゃんが路傍で売っていた黄色いスティクを3元(60円)で食べてみました。食感も味もカステラとお餅の中間のような食べ物でした。台湾でも食べたことがあるような記憶が甦ってきました。
若者たちがたくさん買っていた串肉も5元(100円)で買ってみました。これは台湾でもよく見かけます。ただ、このお店の味は表面だけで中に染み込んでいませんでした。これでは先行きの人気は衰えるはずです。
これにて鐘楼付近の夜間自由散策は終わりです。
 
ホテルに戻り、お母さんがお風呂に入っている間に、貢一は周辺の小さな店舗やコンビニを巡って、値段を確認しつつ、飲み物と軽食を買ってきました。西安の物価は、日本の物価の7~8割くらいと判断しました。
 
お母さんが寝たあとも、貢一はテレビのチャンネルを変えて、中国の放送を見ていました。チャンネルは30ほどで、アメリカのドラマを放映していたチャンネルが2つほどありましたが、米CNN、日本のNHKなどの海外の放送はまったく放映されていませんでした。徹底した情報統制国家・中国ですから当然と言えば当然です。