こういう政治家がいることを知って、少し安堵した。
世界の中の日本という視点で優しく語り、日本の未来を担う子どもたちに注ぐ眼差しが温かい。
安岡定子さん主宰の「世界の中の日本」という講座を聴講してきた。対象は、夏休み中の子どもたちにグローバルな視点を持ってもらおうと開かれた。大人も参加可能ということでエントリーした。講師は山田基靖(もとやす)さん。冒頭で触れた政治家だ。
1982年生まれの43歳。
上智大学法学部卒業後、外務省入省。
外交官として、ポーランドとアメリカに駐在。
外務省から初めて姫路の学校法人に派遣され、学園長に就任。
2024年4月に兵庫県姫路市副市長になり、去年、衆議院議員に初当選した。
父が北海道拓殖銀行に勤めていたので、よく引っ越しをした。
その数43年の人生で25回にのぼる。
中学3年生の時、拓銀が経営破綻した。当たり前の日常があることの有り難さを痛感した。
高校3年間の担任の先生は、専門の英語だけでなく全教科の受験対策を教えながら、「教師は生きる意味を教えられなければならない」「穴は掘った分しか深くならない」といった哲学を諭し、心を熱くしてくれる真の教育者だった。この出会いからすべてが変わった。
大学入学直後にニューヨーク に行くことを決め、アルバイトで資金を作った。現地に出発したのは、2001 年 9 月 10 日。同時多発テロの前日だった。9 月 11 日、現場近くに居合わせ、あの歴史的な惨事を目の前にした。「日本でこのようなことが起こってはならない、日本を強くする外交官になりたい」と意志を固めた。
外務省に入ってから、ニューヨーク、ポーランドに駐在し、首脳外交の通訳を担った。
国連で SDGs交渉に従事、地球規模の課題に向き合い、新しい価値を生み出す次世代が必要となることを痛感。
安全保障の業務も担いながら、戦後に構築した日本の安全保障の体制では、もはや日本の主権や国民の生命財産を守りきれない現実に苦悩した。
姫路の私学の学園長に就任。学びの変革が求められている時代に、従来型の詰め込み教育からの脱却が進まない現実、世界の動きを次世代が学べる環境が整っていないことなど、教育行政の仕組みを根本から変える必要性を痛感し、強い危機感を覚えた。
幼少期から引っ越しを繰り返す中、初めてふるさとと思えた姫路への移住を決断。副市長として市民の方々との対話を重ねるうちに、姫路には活かしきれていない大きな潜在力があると実感。
この力を最大限発揮し、次世代へバトンを渡したいとの覚悟から、国政への立候補を決断した。
この日、彼は、子どもたちに優しくわかりやすくかみ砕いて、
「世界の中の日本」のありようについて語った。
これまで64の国を訪れたが、日本という国の素晴らしさを痛感したという。
ゆえに豊かな日本語を学ぶことが英語を学ぶ近道になると考えている。日本を知らずして英語で日本を語ることが出来ない。
山田さんは、白洲次郎を尊敬している。白洲次郎は、アメリカをして「従順ならざる日本人」と言わしめた。山田さんも白洲のように、嫌われてもいいからやるべきことをやりたいと思っている。
1951年、当時の吉田茂首相がサンフランシスコ平和条約の受諾演説の原稿を和紙に毛筆で書くよう進言したのは白洲だった。
当初は英語で演説する予定だったが、日本人の真骨頂を示すべく変更した。白洲は「独立の演説を相手の言葉でする馬鹿がどこの世界にいるんだ!」と吉田を喝破したという。
演説原稿は、前夜に、長さ30メートルに及ぶ巻紙にしたためられた。海外メディアは「トイレットペーパーのようだ」よ揶揄した。
白洲は1970年代に、「こう言ったらこう思われると萎縮しているようでは、いつまでたっても戦後は終わらない」と当時の若者を批判している。いま他人の顔色を見ながら優柔不断な若者はもっと増えている。
自国を守るため自分の意見をはっきりと言える若者を育てたいという山田さんの気概を感じた。
きちんした国家観、歴史観を持たないと、世界の潮流に飲み込まれてしまう。キャリア教育、歴史教育を怠らないことだ。背骨をもったリーダーを育てることが急務だ。
論語好きな山田さんは、「遠慮近憂」という言葉を引用した。
遠い将来をしっかり考えておかないと、身近なところで心配事が起きる。不断の努力を積み重ね、憂国の気持ちを抱き、将来を見据えた行動をとる必要性を強調した。


