大人の寺子屋~次世代継承塾~は5年目に入った。
今回のゲスト、大谷貴子さんは、
日本で骨髄バンクを設立し普及させた立役者だ。
現在は、全国骨髄バンク推進連絡協議会の副会長をしている。
1961年大阪生まれ。
ざっくばらんで、世話焼きで、おせっかいが身についた生粋の「大阪人」だ。
だが、25歳の時、さすがの「明るい大阪人気質」も暗転するアクシデントに見舞われる。
ちょうど40年前の1986年、千葉大学大学院で修士論文提出に追われていた時、唐突に「慢性骨髄性白血病」と診断された。
当時は骨髄移植がほとんど唯一の治療法。
提供者と患者のHLA型(白血球)が適合しなければならない。
親子ではほとんど可能性がない。
他人同士で5000人~10000人に1人。
兄弟姉妹では、4分の1の確率で適合するので、姉に期待したが、ダメだった。卒業アルバムを手掛かりに片っ端から同級生に電話したが、ダメだった。
ドナー探しも暗礁に乗り上げたところ、再検査の結果、お母さんの白血球が適合することが判明した。
しかし、その時点で大谷さんの状態はかなり悪化していて、7人の医師団の6人が移植に反対した。だが、若い研修医が命を救うためにやるべきだと声を上げた。ただし「成功確率は1%しかない」と言われた。だが、その場で聴いていた姉の「1%もあるやんか」一声で移植手術に臨み、見事に成功したのだ。
1988年1月11日。1並びの日だった。大谷さんの第二の誕生日になった。
以来、助けられた命を、日本の骨髄バンク設立と普及のために使っている。
時間を惜しんで全国を講演。1日に4回講演したこともある。
1年に300回講演したこともある。
とにかく誰かの役に立ちたいという大谷さんの熱意が、130万人の署名を集め、国を動かすことに繋がった。
1991年、ドナー登録を開始し、93年には初の骨髄移植を斡旋した。2020年には、移植25000例に達した。
骨髄移植をすると、子どもが授からないということが発覚した。医師も知らなかった放射線治療の後遺症だ。
これも大谷さんが奔走して、2001年、「卵子セルフバンク」を設立。放射線治療に入る前に、卵子を確保して凍結しておき、
移植後に自分の子宮に戻す。それが成功して、赤ちゃんが誕生した時は話題になった。
姪が「スキルス胃がん」になったときも、アクションを起こした。姪は当時32歳で、4歳の双子のママだった。「助からないのであれば、自宅に帰りたい」と姪は希望したが、39歳までの患者は、自宅療養できない日本のシステムに愕然とする。
横浜在住の姪は、たまたま、横浜市独自の支援で、在宅療養が出来て、2020年1月に他界した。その後、市町村レベルから国レベルへとその支援設立のために奔走した。
同時に、病室には無料Wi-Fiが整備されていないことを知り、
コロナ禍ゆえの孤独感、教育を受ける機会を奪うことに危機感を覚え、国に提言し改善を求めた。
ある日、山中伸弥さん本人から突然電話がかかってきた。
「未来のいしずえ賞」に推薦したいというのだ
去年2月、「第8回未来のいしずえ賞」を受賞した。
未来に向かって豊かな社会の礎を築くために、目標に向け強い意志をもって活動し、人知れず努力を重ね、貢献した方々の功績を讃える国際賞。
その「医療部門」の受賞だ。慢性骨髄性白血病からの奇跡的な生還を経て、骨髄バンクの普及と、いのちの重みを伝える活動に奔走しているので選ばれた。これまでの東奔西走が報われた気がした。
いま「骨髄バンク」の課題は、若年層のドナー登録者が不足していること。登録者の多くが40代以上であり、55歳になるとドナー登録が終了する。現在56万人の登録者がいるが、5年後には13万人激減、10年後には22万人減る。
骨髄移植を希望する患者さんは、年間2000人。願いが叶うのはその半数。少しでも叶う人が増えるように、「骨髄バンク」への登録を採血ではなく、今年から新たに「スワブ登録」という方法で出来るようになった。
オンラインで申し込めばキットが郵送されてくる。口の粘膜を綿棒でこすって、返送すればOKというものだ。
血液のがんといわれる「白血病」を克服した後も、大谷さんは、次々がんに見舞われる。子宮頸がん、大腸がん、肺腺がんになった。超早期発見だったので事なきを得た。いまリウマチの治療もしている。病の話をしていても、大谷さんは暗くならない。
1%の壁を乗り越えたから、怖いもんなしだ。
これからも天性の明るさで、理不尽なことを見逃さず、声を上げられない人の代わりに大きな声を上げていく。
新刊を手に取りながら、「一寸先を闇にするも光にするも自分しだい」と力説。
アーカイブ配信は、10日からの予定。


