72歳になりました | 村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

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元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。

先日、京都ノートルダム女子大学の女子大生に会う機会があり、

「ボク、いくつだと思う?」と聞いたら、「49歳」と即答が返ってきた。実年齢を言うと、ずいぶん驚いていたが、若く見積もられた当人は、いたくごきげんであった。

きょうの午前9時50分、満72歳になった。巳年の還暦から、はや一回り。早いものだ。

気分は永遠の49歳。去年6月のYouTube配信に続いて、今年6月からは、ピアノを習い始めた。年齢はあくまで数値にすぎない。年齢を言い訳にせず、新しいことにどんどん取り組んでいきたい。

 

ところで、なぜ午前9時50分に生まれたかを知っているかと言うと、母が生前、毎年誕生日の午前9時50分に電話をかけてきてくれたからだ。

京都新聞夕刊の連載エッセイは、たまたま6月30日が、ボクの担当日だった。生んでくれた母への感謝の気持ちを込めて、母のことを書いた。

 

母、村上たづ子は、京都生まれの京都育ち。今月22日が誕生日、生きていれば95歳になる。これまで母のことは、あまり人前で語ってこなかったが、京都新聞に書くことで、母は、人の心の中に生き続けると思う。

母は、昭和5年京都に生まれた。若いころの写真を見ると、我が母ながら、長身の美人だ。父が惚れたのがよくわかる。

母が亡くなった夜、遺品の中に、父から届いた恋文が数十通あることが判明した。戦後まもなく、信州上田と京都と離れていた時期があり、父は、何度も手紙を書いていたのだ。

そこには、会えない切なさが綴られている。母からの返事を待ち焦がれている様子が見て取れる。「この手紙を読んではならない」という書き出しで始まる恋文は秀逸だ。「読んではならないというのにまだ読んでいますね…もう読むのがやめられなくなりましたね…とうとう最後まで読んでしまいましたね。僕はあなたが大好きです」息子のボクが読んでいても顔から火が出そうだが、一途な想いが母の心をとらえたのだろう。そのおかげで、ボクが存在している。

母は、丁寧に丁寧に生きた人だった。特に、料理には手をかけた。料理番組が始まると、一言も聞き洩らさないようにして、大学ノートにメモを取っていた。手を変え品を変え、献立を考え、毎日の食卓に美味しい料理を並べてくれた。ボクにとって「おふくろの味」は一つに絞りきれない。

晩年も、不自由な身体を押して台所に立っていた。亡くなる直前に、何か言いたいことはないかと問うと、「菜の花の和え物が食べたい」と答えが返ってきた。最後まで、食にこだわっていた。

六十代に入ってからは、頸椎のヘルニアで、「痛い、辛い、しんどい」の毎日だった。

笑顔も少なくなり、眉間に皺がよることが多くなった。

なかなか嬉しいことばを言わない母に、息子はなかなか聞く耳を持てなかった。「痛いのは生きてる証拠」などとひどいことを言った。「あんた、アナウンサーやろ。どうしてもっと優しい言い方できひんの」と母を嘆かせた。

「痛いよね」「辛いよね」「しんどいよね」…どうして、ことばで寄り添えなかったのか、後悔先に立たずだ。母と、もっと話しておけばよかった。いつも生返事。いつも短時間。

だが、最期の日は、5時間ベッドサイドにいた。腸閉塞に尿毒症を併発し、かなり厳しい状態だったが、母は死ぬ気などなく、弱弱しい声ながら饒舌だった。「菜の花」のこと以外にも、病状のこと、夢に父が出てきた話…いろんな話が出来た。そして、一旦引き上げるからと告げると、しっかり目を見据えて「気をつけてね」と言ってくれた。その3時間後、容態が急変したのだ。

父の最期の時も、前夜、ゆっくり話せた。別れ際に聞いた父のことばも「気をつけてな」。

父も母も、病身ながら、息子を気遣う「気をつけて」が最期のことば。吉田松陰の歌にもある「親思う心にまさる親心」なのである。(京都新聞6月30日付け夕刊)

 

京都・護王神社で茅の輪くぐりするムラカミ。