「刀伊の入寇」という言葉を寡聞にして知らなかった。
『光る君へ』で初めて知った。
「この世をばわが世とぞ思ふ」に始まる有名な歌が詠まれたのは、
1018年のこと。藤原道長は3人の娘を次々に天皇や皇太子の后とし、得意の絶頂にあった。だがその翌年、驚くべき事件が起こる。中国大陸に住む女真族(刀伊)が海賊化し、朝鮮半島を経由して対馬・壱岐、北九州沿岸に侵攻したのだ。
平安時代最大の外交危機なのだが、「元寇」は有名だが、「刀伊の入寇」は教科書でも学んだ記憶がない。
東アジアの中核だった唐が滅び(907年)、周辺地域では新しい動きが現れた。朝鮮半島では新羅に代わって高麗が、満州地方では渤海に代わって契丹が誕生した。中国では唐の滅亡後の分裂時代を経て宋が建国された(960年)。
女真族は、中国(宋)、朝鮮(高麗)、満州地方(契丹)の3勢力に挟まれた存在だった。なお、「刀伊」とは高麗の人々による女真族の呼称。
朝鮮半島で略奪を繰り返した女真族(刀伊)はその後、1019年の3月末から4月にかけて対馬、壱岐、北九州沿岸を襲った。
とりわけ対馬と壱岐は、老人・子供が殺害され、壮年男女が捕虜として連れ去られ、牛馬が斬食されるなど、甚大な被害をこうむった。
だが、大宰府の長官だった藤原隆家の指揮のもと、現地の武者たちの奮戦もあり、女真族を撃退することができたのだ。
葉室麟さんが、その名も『刀伊の入寇』という題で小説を書いているので、読んでみた。400ページを一気に読んだ。
主人公は、藤原隆家。
朝廷きっての貴公子でありながら、「さがな者」(荒くれ者)と呼ばれ、花山法皇や藤原道長らとの闘争に明け暮れていた。
そんな隆家に、陰陽師・安倍晴明は彼にこう告げた。
「あなた様が勝たねば、この国は亡びます」。
道長との政争に破れ、自ら望んで任官した九州・大宰府の地で、隆家は、海を越えて壱岐・対馬を蹂躙し、博多への上陸を目論む異民族「刀伊」の襲来を迎え撃った。
清少納言、紫式部らとも交流し、京の雅の世界にも通じつつ、かつてなき未曾有の国難に立ち向かった実在の貴族の奮闘を、葉室麟さんの達者な筆致で描く。
『光る君へ』に登場した人物が多く出てくるので、追体験しながら読んだ。だから没入しやすい。
「朝廷は、この世で美しいと思われるものがすべて集まるところだ。
権力の座をめぐっての争いは醜いが、誰もが美しきものを求めてやまない心を持っているからこそ、争いは繰り返される」
「勝者がすべてではない。敗者の悲しみやせつなさの中にこそ、美しさは発露される。勝者の凱歌ではなく、敗者の悲歌に心動かされることが雅なのではないか」
「この国には敗者を慈しく称える雅の心がある。だからこそ、この国を守りたいと思う。この国が亡びれば雅もまた亡びる」
この一連の文章に、この小説の主題があると思う。
だから、葉室麟さんの小説は美しい。