村上信夫 オフィシャルブログ ことばの種まき

元NHKエグゼクティブアナウンサー、村上信夫のオフィシャルブログです。


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この本の著者、原口泉さんには、

鹿児島で一度お会いしたことがある。

鹿児島県立図書館長で、

今回の大河ドラマの時代考証も担当している。

その原口さんが書いた西郷どんの素顔がわかる本。

ただの礼賛ではなく、集められる限りの資料をもとに、

批判的な内容もあえて入れ、

読者の判断に委ねる書き方をしてあるところに好感がもてた。

そして、この本を読んでいると、
「今の日本はこれでよかごわすのか」と
西郷どんの問いかけが聞こえてきそうな気がする。
 
明治維新以降、日本は、
急激な欧風化工業化、富国強兵策を進めてきた。
西郷どんには、
自給性持続性を重視した農業立国のビジョンがあった。
若き日の西郷どんは、
「郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)」という米の出来高を調べ年貢の取り立てをする助手のような仕事を10年もしている。
下級役人として、よく腐らずに仕事をしたものだ。
役人の不正、農民の苦渋を目の当たりにして、農政改革の意見書を出したことが、藩主・島津斉彬の目に留まった。愛民思想や農本主義は、このとき培われた。
廃藩置県を断行したとき、西郷どんは、失職する二百万人の武士の
居場所を考えていた。武士が刀を鍬に持ち帰ることで、新しい国作りが出来ると考えていた。
明治政府を退任し帰郷した西郷どんは、「吉野開墾社」を作り、
開墾事業による人材育成に力を注いだ。「人間の心を開拓する」という意味の漢詩も残している。
武器で政府に抗らうことは、西郷どんの本意でなかったはずだ。
 
西郷どんといえば、「征韓論」が有名だ。
だが、著者の原口さんは、「遣韓論」と呼ぶ。
当時の朝鮮は、明治新政府を認めず、国交断絶の立場をとっていた。
外交では埒の開かない朝鮮に、
軍事力を行使すべきだという強硬な考え方を「征韓論」といい、
西郷どんはその急先鋒のように見られていた。
だが、実のところは、「列強の脅威を感じればこそ、朝鮮と国交回復すべきだ。どんなに国が富んでも、それを文明国とは言わない。真の文明国は、道義が行われる国だ」というのが西郷どんの考え方だったのではないか。
「しかるべき人間が正装して行き、意図を礼儀正しく述べ、理解を求めるべきだ」と、むしろ征韓論に反対している。
「その使節に自分がなる、もし殺されたら、それを口実に出兵したらいい」と言ったことが、征韓論者と誤解されて伝わったのではないか。
西郷どんは、アジアがスクラムを組んで列強に対抗すべきと考え、
朝鮮と清国と日本の三国同盟を目指していたと推測される。
もし、それが叶っていれば、今の日本の悩みである韓国や中国との軋轢も起きていないかもしれない。
政府内での激しい議論の末、西郷どんの朝鮮行きが決まるが、
岩倉具視が閣議を白紙撤回してしまう。
このことを重く見た西郷どんが辞表を出し、鹿児島に帰ってしまう。
それがひいては西南戦争に繋がっていく。
 
西郷どんの遺したことばをまとめた『南洲翁遺訓』は、
死後13年たった明治23年に刊行された。
その編纂にあたったのが、
旧庄内藩主の酒井忠篤(たたずみ)公だった。
戊辰戦争の時、
西郷どんが庄内藩に寛大な措置をとった恩義を忘れないでいたのだ。上野公園の銅像建立の発起人にもなっている。
「敬天愛人」の心得は、敵味方の枠を超えた。
 
敬天愛人の境地は、艱難辛苦を幾度も与えられ、
何度も死の淵から蘇った西郷どんだからこそたどりついたものだろう。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらず。そんな人は始末にこまる。だが、そういう始末に困る人でなければ、国家の大業はなし得ない」と西郷どんは言う。
 
 
 

 

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