12月4日は11回目の結婚「式」記念日。
最近、結婚観について聞かれることが多かったので
僕の考えを今日の日記から…。
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今日は病院で検査。待ち時間に、幸子と映画「君に読む物語」を見た。夫の献身的努力で、認知症の妻が数分だけ記憶を取り戻し、二人で踊る素敵な場面があった。夫婦の幸せ、人生の幸せは、かけがえのない瞬間が作ってくれるように思う。その瞬間を経験しているから、人生は素晴らしいものと思えるし、それ以外の時間も幸せを感じながら過ごせる。
男女の最高の喜びは、素敵な異性と過ごすことではない。もちろん、素敵な異性は喜びを生む。人間の本能は、肉体的魅力を持つ男女を望むし、生活の安定や社会的ステータスを求める。しかし、経験してわかったことは、そういった受け身の(何かが得られたら嬉しいという)喜びとは比べ物にならない喜びを、自分たちで意図して作ることができるということだ。
僕たち夫婦は喧嘩もしたし、分かり合えない経験もした。相手に疑問を持ったり、どうしてこうなんだろうと落胆したこともあった。幸子は僕以上だったに違いない。でも、お互いに理解を深め、その度に絆を深めていった。困難も乗り越えて、素晴らしい経験をたくさん積み上げた。その中で相手の美しい人格にたくさん触れた。その多くは楽しいとき以上に、困難な場面においてだった。
今、11年の結婚生活を振り返って得られたものは、当初の想像をはるかに超えて素晴らしく感動的なものだった。それは、幸子と一緒に積み上げてきたもの。表面的には、困難を乗り越えたことや、子育てや海外生活などたくさんの楽しい経験ができたこと。感情的には、多くの喜びを分かち合ったこと、相手の深い思いやりを感じあったこと、子供の存在と成長の喜びを共に感じてきたこと。精神的には、相手の人格の素晴らしい面を知り、相手の存在そのものに感謝したこと。相手の中にたくさんの発見をしてきた。それを通して、自分の中にもたくさんの発見があった。相手と自分への理解が深まった。
今はまだ、病気の影響で僕の生活は制約を受けている。不自由な面もたくさんある。夫婦で大好きな海外旅行もしばらく行けていない。でも、僕はこれまでになかったほどの幸福感を感じている。何もなくてもこの人がいる。この人の喜びを自分の喜びとして生きていける。妻や子どもたちの寝顔を見るだけで、幸せに満たされる。目頭が熱くなることすらある。そんな心からの平安を伴う幸せを日常的に感じている。
以前に両親4人をハワイに招待した時、義母が「幸せ。こんなに幸せでいいのかしら」と言った。今の僕も似た気持ちだ。「まさか、男女関係にこれほどの幸福感が待っていようとは!当初は全く想像もできなかった。僕の想像できる範疇を超えていた」と。
僕たちの関係は最初から良かったわけではない。20代の僕は本当にワガママだったし、ひどい男だったと思う。そんなところからスタートして今に至る。奇跡のようにも思う。運命だったようにも思う。妻と向き合ってきて良かった。思いやりを積み重ねてきて本当に良かったと思う。
オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」では、妻が自慢の髪を切って夫の懐中時計の鎖を買い、夫は大切な懐中時計を質入れして妻に鼈甲の櫛を買った。裕福ではない夫婦が、相手のことを喜ばせたい一心で自分の大切なものを手放し、そしてそれが無駄になってしまった物語。でも、彼らはお互いを愛し思いやる共有体験をした。その瞬間はまさに人生のハイライトだ。
人生のハイライトは結婚式ではない。お金持ちにプロポーズされた時でもない。豪華旅行をした時でも、社会的成功をした時でもない。その裏にある日常の生活の中で互いに思いやりを示した記憶。相手の素晴らしさを感じた記憶。11年を振り返ってみたら、お互いを思いやり人格を発揮した全ての瞬間が、僕にとっての人生のハイライトだった。その積み重ねが愛を深くし、夫婦関係において想像をはるかに超える喜びを作ってくれた。10年後は、また想像のつかない喜びに満たされているのだろう。
