錦糸町すみだパークシアター倉で翻訳家集団、トランスレーション・マターズが主催する公演「エミリア・ガロッティ」を観た。

 

18世紀ドイツ啓蒙主義の作家、思想家レッシング(そういえば、大学時代にドイツ文学の授業で読んだな〜〜とその名前を思い出した。内容は覚えていないけど。。。)の戯曲を森鴎外がドイツ語から翻訳し「折薔薇」と題した戯曲を採用、トランスレーション・マターズ代表の木内宏昌が翻案(鴎外の翻をほぼそのまま使用した、とアフタートークで語っていた)、演出を担っている。

 

***** あらすじ 2006年彩の国さいたま芸術劇場でドイツ座が上演した際のプログラム より *****

 

グァスタッラの公爵ゴンザーガは、平民の娘エミーリアを一目見て恋に落ちるが、彼女がアッピアーニ伯爵との結婚を控えていることを知り愕然とする。結婚式の朝、教会で祈りを捧げるエミーリアの耳元で領主である公爵が愛の言葉を囁く。驚き慄くエミーリア。同じ頃、侍従マリネッリの策略によってアッピアーニ伯爵が殺害される。何も知らずに、公爵邸に連れてこられるエミーリア。
一方、公爵に裏切られ、プライドを著しく傷つけられた元恋人オルシーナ伯爵夫人は、エミーリアの父親に公爵が娘を誘惑したことを告げ、復讐するように仕向ける。わが娘の貞操を傷つけた公爵を殺して娘を連れ戻そうとする父親に、エミーリアは静かに対峙する。そして父親に自分を殺してくれるように頼む。

 

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言葉に関しては明治時代の(お公家)言葉、おじゃる、くりゃれ、みども、、、などが意図してそのまま使われている。あえて今は使われていないそのような言葉を現代の俳優が話すということにチャレンジしたかったと語る演出家。

 

また、もう一つのチャレンジとして、今作では演劇におけるSDGs—とくに環境の持続可能を確保することを目指したグリーンプロダクションを掲げ(大島広子がコーディネート)、古材を美術に使ったり、再生可能な素材を使ったりということを試みていると言う。

 

この古材で作った何本かの平均台のようなセットをシーンによって移動し、自由な発想の美術を使っていた(美術・衣装:大島広子)のはスタジオ空間にも適していて、とても効果的であったと思う。

 

だが、もう一点の大きなチャレンジ、、言葉の面に関してはそのチャレンジの目的が果たされていたかどうかに疑問が残る。

 

アフタートークで役者たちが普段は使わない言い回しで台詞を話すので、そこは苦労したと話していたように、役者に負荷がかかっていたのは明らかで、さらに言えば、観客にもその負荷はかかっていたのではないかと感じた。

(補足すると、役者がこの台詞を十二分に身体に落とし込むまでの稽古期間があれば、、とも思うが、日本のプロダクションではなかなかそこまでが難しいのでは?公演後半はもっと変わってくるかも。)

 

一つ一つの語尾が長くなったり、聞きなれない言い回しで語られる(少しの間聞いていれば意味はわかるのだが)ので全体的に冗長な印象になり、ましてやシェイクスピアのロミジュリやハムレットのように誰もがその役名、ストーリーを把握しているわけではないので肝心なストーリーを伝えるという方が希薄になってしまったように思った。

 

そんな中、召使いマリネッリを演じた古川耕史のこなれていながら、メリハリのある演技が光った。

ーーー>小さな空間で彼を観る機会はそれほどなかったと思うのだが、舞台でのあらゆる意味でのその”美しさ”にも目を奪われた。

 

ちなみに演劇でのグリーンプロダクションがいの一番に取り組むべきは「戯曲」「作品」のSDGsでしょうね。

1回、それも10回以下の公演でその後は書棚に積まれてしまう戯曲。。。”もったいない!”の一言だから。