神奈川芸術劇場(KAAT)で同劇場芸術監督の長塚圭史演出のアーサー・ミラー「アメリカの時計」を観た。

 

1950年前後に書かれた戯曲「るつぼ」「セールスマンの死」「みんな我が子」などが広く知られているミラーの後期の作品(1980年)。

 

先日、前述の戯曲よりは上演機会が少ないが今回の「アメリカの時計」に比べると馴染みのある「橋からの眺め」が英国人演出家ジョー・ヒル=ギビンズの演出で上演されたばかりだが、なぜ今ミラーが頻繁に上演されるのか?となるとそれはこの舞台を観てもわかるように火を見るよりも明らかで、今の社会状況がミラーが予告?、示唆した!資本主義のその先の闇を証明していて、その道を確かにたどっているからだろう。

 

******* 演劇サイト より*********

あらすじ
1920年代のアメリカは史上空前の繁栄をとげ、アメリカ人の誰もが、株さえ持っていれば金持ちになれると信じて疑わなかった。しかしこの状況に疑いを持った、アーサー・ロバートソンは、いち早く株から手を引き、親しい者に警告して回るのだが誰も聞く耳を持たない…。
そして1929年、株式市場を襲った大暴落は、裕福なボーム家にも大打撃を与えた。父親モウ・ボームは剛直な実業家であったが、株に打ち込みすぎて、市場の崩壊とともに財産を失う。母親のローズは、家族が生きるために、宝石類を現金に換える日々。息子のリーは、人々が職にあぶれて飢えていく様を目の当たりにしながら、自身の人生を歩んでいく。

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先日、パルコ劇場の企画で「橋からの眺め」を演出したギビンズと2022年に「セールスマンの死」を段田安則主演で上演し好評を博した同じく英国人演出家ショーン・ホームズ(2024年春にはホームズ演出で同じく段田主演のシェイクスピア「リア王」を上演予定)の対談を担当したのだが、その際にホームズがミラーの戯曲について、

 

「ミラーはいつでも、たとえそれが不可能であっても、あることについて解き明かそうとしてきました。それが「家族」についてです。。。。家族の間に常に存在しているテンション、その程度が軽いものでもとても深いものでもですが、とにかくそのテンションを解き放つための答えを探し続けたのです。」

 

と語っていたのだが、この意味で言うと、ミラーはその「家族」を今作ではアメリカ市民というところまで広げ、アメリカという国の中にある軋轢を白日の下にさらし、さらに時に家族単位にまで焦点を絞り大恐慌という不測の事態に世代の違う人々が集う家族の中で起こるテンション、を丁寧に炙り出し、その問題を考察をしている。

 

世界大恐慌という世の中の規範が無意味となる事態をアメリカ市民皆が経験したにもかかわらず、その教訓を活かすどころか、ますますマネーゲームにのめり込み、巨額な軍事産業頼みのアメリカ、、、アメリカのみならず、世界全土がそれに続けとばかりに同じ道を目指し進んでいる地球をミラーはどう見るのだろうか。アメリカの時計のみならず、地球時計はお金の前でないがしろにされた気候変動などにより週末の時を刻もうとしている。

 

と、ここまでは戯曲に関してだが、今回の長塚演出のプロダクションについて。

 

まず、なんと言っても一家の母親ローズを演じたシルビア・グラブが劇の中心で揺るぎない存在を示したその好演が光った。

 

家族を守り切るという強い母親の顔と世界の変化に戸惑う一市民の顔、、夫モウ(中村まこと)の頼りなさを不安に感じながらもその夫を気遣う妻の顔、、、と一人の女性のさまざまな顔を表情豊かに演じてくれいていた。

 

当日パンフレットの中で、美術・映像の上田大樹が演出家長塚の意図として、人が生きていく土壌となる地面(劇場舞台の床)を土で覆い、その上にある天井空間にはスクリーンを配し、大恐慌当時のアメリカの様子を映し出すというセットにし、俳優たちはその舞台空間の周りで待機しているという仕掛けにした結果、「俳優に多くを委ねたフレキシブル」な空間になっていると語っている通り、確かに俳優一人一人が逃げ場のない舞台空間でその出来が問われる、一貫して緊張感のある舞台となっていた。

 

前述のグラブの他に、物語を俯瞰で語るMC役アーサー・ロバートソンを演じた河内大和は相変わらずの抜群の存在感を示し、この社会事象の被害者でありミラーの分身とも思える息子リーを演じた矢崎広も育ちの良さを感じさせる青年を好演、時代から取り残された祖父を演じた大谷亮介が動じない老人のすごみを見せた。

 

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