静岡舞台芸術センター(SPAC)で泉鏡花作、宮城總演出「夜叉ヶ池」を観た。

 

2008年に初演後、今回が4回目の再演となるSPACの人気演目の一つ。宣伝文にスペクタクルとあるが、艶やかな衣装をまとった神の化身である龍や鯉の姿をした妖怪たちが、せり上がり上でパーカッションを持ちリズミカルに演奏するクライマックスはまるでコンサートのよう(センターで太鼓を打ち鳴らす龍神の白雪姫(たきいみき)がSHOW-YA寺田恵子に見えたのは私だけでしょうか)。

 

宮城はこの「夜叉ヶ池」の前、1996年に泉鏡花のもう一つの妖怪物語「天守物語」を演出していて、そちらは世界各地で上演され、宮城の劇団ク・ナウカの代表作の一つとなっている。当時ク・ナウカは公園や建物の共用部分ホール、庭園、など屋外での上演が多く、「天守物語」もチベットの屋外(公共の広場)、エジプト・カイロの野外劇場などで上演され、海外の観客に忘れられない観劇体験を提供している。

 

パーカッションのライブ演奏付き、そしてアイディアに富んだ鮮やかな色彩の和装の衣装、と2つの作品に共通するところも多いのだが、肝心なところでの違いがあり、

「天守物語」はロゴス(言葉=セリフを話す俳優)とパトス(肉体=動きを担当する俳優)の二人一役で、「夜叉ヶ池」は通常の一人一役で演じるという違いがある。

 

ロゴスとパトスについて、宮城はかつて人からなぜその手法をとるのかと聞かれ、「現代を生きている人間は言葉と肉体、つまりロゴスとパトスが分離してしまっているから、分離したままの状態を見せるほうが観客にとって誠実な在り方だと思うんです」と答えたと演劇サイトのインタビューで答えている。

二人一役を経て、現在は1人の役者がロゴスとパトスを受け持つ形のスタイルをとっていることは周知のとおり。

 

で、「天守物語」「夜叉ヶ池」でみられたその違いによる成果の現れ方の違いなのだが、

 

「夜叉ヶ池」の一人一役スタイルでは登場人物たちに人間らしさ、人のリアルな生々しさが前面に出ていた一方、「天守物語」では泉鏡花の幻想文学、つまりそのファンタジー、お・は・な・しを鑑賞するという趣きが色こく出ていた。

 

「夜叉ヶ池」ではその登場人物たちがとても人間臭い、、特に主人公の村一番の美女百合(布施安寿香)を村の日照りを解決するための雨乞いの生贄にしようと提案する村の重鎮たちの件などはファンタジーとは思えないほど人の嫌な、ドロドロとしたところが出ているし、百合と夫・萩原(永井健二)の関係などもかなり濃くて生々しい。人の関係性が主軸となるこの戯曲をみせるには人がリアルに現れる一人一役が適しているということなのかもしれない。