死ぬ前に準備できること。 | えつこの部屋

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和尚アートユニティスタッフによる公式ブログ。オーラソーマやコース、最新情報やお仕事のあれこれなどスタッフの日常を公開中。

先月、11年とちょっとの歳月をいっしょに過ごしてきたチワワのルナがボディを離れました。

 

 

遡ることほんの2ヶ月前ですが、具合がよくなかったので動物病院へ行ったところ、獣医さんより「覚悟してください」と言われました。

 

その突然のことにおどろいて、めまいがして椅子から落ちてしまいました。

 

そんなだったので、当然来る日がきたらペットロスになるだろうと予想していました。ところが、そこまで重症になりませんでした。

 

こうして振りかえってみると、死に対してすこしずつ準備をしてきたことが助けになったと感じています。

 

とても平和に、そしてとても静かに最後のときをともに過ごしました。

 

これは、ペットだけでなく、愛するひとやたいせつなひと、そしてもしかしたら自分自身に置き換えられるかもしれません。

 

ちょうど2年前に、OEJBooksより「死について41の答え」という書籍を出版しました。

 

 

その前年は編集スタッフとして校正の日々でした。そして、その年はオーラソーマの恩師のヌラが突然の病気で亡くなった年でした。泣きながら校正をしました。

 

この本でたくさん死について学びました。死について知ったのは、ほぼはじめてのことでした。

 

そのとき一番驚いたのは、亡くなったあとの魂はすぐにあたらしい子宮へ向かうということでした。

 

今生で子どもを持たなかったひともそこですべてが終わりになるのではなく、死後の魂はあたらしい住処へと向かい、自分にふさわしいお母さんのお腹に受胎という形ではいるのです。

 

今生でのカルマを解消する機会を、来生で得ます。

 

そのため、死後のからだはすでに魂の抜けた「抜けがら」であるようです。

 

すこしずつ固くなっていくルナのからだを見ることは、逝かないで欲しいという執着とお役目を終えたお祝いとの2つの想いが混ざってました。

 

死後はお通夜をせずにそのまま火葬しました。ちょうど翌日が祝日だったのもありましたが、抜けがらに飼い主が未練を残すことは、旅立ちを邪魔するからです。

 

葬儀屋さんの車が自宅の敷地内に来てくれて、そこで火葬が行われました。

 

そのときちょっとしたトラブルがあって、大家さんがやって来る事態になりました。

 

あとで思い出しましたが、「死について41の答え」によると、亡くなるときはそのひとが生前持っていたエネルギーがあたり一面に解き放たれ、場合によってはひとが集まってくるそうです。

 

善い行いをしたひとにはよいエネルギーが、そうでないひとの場合は近づかないほうがいいと云った具合です。

 

その夜お仕事から戻ってきて、愛らしい笑顔のいないあたらしい空間に耐えられるのだろうか?さみしさでいっぱいになるのではないだろうか?と思っていたのに、ふしぎなことにそのお部屋はこれまでより光量が増していて、あたたかな空気でいっぱいでした。

 

一瞬で、ルナが愛と光の粒つぶとなってこの部屋にスパークしていたのだと感じました。

 

旅立った日、次の日、その次の日…と、感じることはすこしずつ変化していくのですが、この光と愛に包まれていたことはずっと変わることなく、わたしを平和でやすらかな気持ちへと導いてくれました。

 

でもまだその頃はルナが自分の足元にいたような気もしたし、そうかと思えば遠い宇宙の果てまでおさんぽに行っているような気もしました。

 

そして、もっともヒーリング効果があったのは、まわりのひとたちのやさしい言葉でした。

 

繊細になっているわたしにやさしく接してくれたり、ときにルナの話を聞いてもらったり、自分の飼っていたペットとのエピソードをシェアしてくれたり…。

 

ひとがひとを癒すのだと、毎日が感謝の想いでいっぱいでした。

 

「死について41の答え」はマニーシャが編集したものですが、のちにマニーシャのコースも受講することになりました。

 

特に、今年の1月にインドのプネーで受けたコースは、OSHO インターナショナル・ メディテーション・リゾートのなかでも3本の指にはいるアドバンスなクラスと言われていて、ここで強烈な死のコースを体験しました。

 

 

(画像は、インド行きの荷造りをしていた荷物に溶け込んでいたルナ)

 

そこで、執着を持たないこと、未練を残さないことの重要性を学びました。そういう想いがあると成仏せず、スムーズに次の生へ移行できないこともわかりました。

 

死に恐怖を持つぐらいなら、同じくらい今を後悔ないように生きなくてはいけないのです。

 

ルナの死を迎えたとき、ふしぎと「ああすればよかった」という後悔の想いはわきませんでした。

 

でも、話すことができないルナ自身はどう思っていたのだろうか?という疑問がわきました。

 

そのことを解消してくれたのが、Sinéad O'Connor の Thank You for Hearing Meという曲でした。

 

 

Thank you for hearing me 

Thank you for hearing me 

Thank you for hearing me 

Thank you for hearing me 

 

Thank you for loving me 

Thank you for loving me 

Thank you for loving me 

Thank you for loving me 

 

Thank you for seeing me 

Thank you for seeing me 

Thank you for seeing me 

Thank you for seeing me 

 

And for not leaving me 

And for not leaving me 

And for not leaving me 

And for not leaving me 

 

Thank you for staying with me 

Thank you for staying with me 

Thank you for staying with me 

Thank you for staying with me 

 

Thanks for not hurting me 

Thanks for not hurting me 

Thanks for not hurting me 

Thanks for not hurting me 

 

You are gentle with me 

You are gentle with me 

You are gentle with me 

You are gentle with me 

 

Thanks for silence with me 

Thanks for silence with me 

Thanks for silence with me 

Thanks for silence with me

 

Thank you for holding me 

And saying "I could be" 

Thank you for saying "Baby"

 

Thank you for holding me 

Thank you for helping me 

Thank you for helping me 

Thank you for helping me 

Thank you, thank you for helping me 

 

Thank you for breaking my heart 

Thank you for tearing me apart 

Now I've a strong, strong heart 

Thank you for breaking my heart

 

Written by John Charles Reynolds, Sinead O'connor • Copyright © EMI Music Publishing

 

この曲も、マニーシャがコースのどこかで流してくれたものです。

 

シネイド・オコナーが虐待を受けていた、そのお母さんに向けてつくった唄なのではないか?と推測されています。

 

誰かの死に後悔しているひとがいたのなら、この曲は自分への許しの気持ちがやってくるかもしれません。

 

今年もマニーシャが来日して、9/8(金)~10(日)の3日間、「死を超えて生きるために」のコースが代官山で開催されます。

 

マニーシャも自分の体験をこのように述べています。

死というのは避けたい問題です。
他人の死もできれば見たくはありません。

それも自分の死を見たくないからです。
でも、避けて通れないのが死です。

大抵は、他の人は死んでも自分は死なない、
とどこかで思っているものです。

もし、自分が死ぬということを知っていれば、
自分の死を今日宣告されても、
あるいは、一ヶ月の余命を宣告されても、
全く動揺することもなく、今を生きていくことが
できるでしょう。

人が死ぬことに対しても、悲しみを感じるにせよ、
祝福する気持ちもそこにはあるでしょう。

30年前に父の死に直面したとき、
自分の死に直面するに等しい衝撃を受けました。
それは、死によって外側のものは
全て役に立たないことを見たからです。

社会的な名声も財産も家族も、
外側にある目に見えるものは全て
置き去りにしていくしかないのです。

人生とは何かを真剣に考えさせられました。

そのときにOSHOに出会いました。
OSHOは死を超えたものを語り、
死を超えたものを見せてくれました。
その人の中にその真実があることを
感じることができました。

その30年後に、今年の2月に母が逝きました。
数日前から容態が悪化し、病室で看護をしていましたが、
一緒に瞑想する機会を持ち、最後はマニーシャの
OSHOバルドの瞑想を一緒に聴きながら
静かに息を引き取りました。

その魂が解放されていくことが感じ取れ、
長く闘病で苦しんだ肉体からも解放されていくことを
祝福もしました。

30年前に父が病室で息をひきとるときには、
逝かないでくれと呼び止めようして泣き叫んだものでした。
30年後に母の死に直面して、死に対する自分の心境も
随分変わったものだと驚きました。

死とは何なのか。生きるとは何なのか。
死を超えて生きるとはどういうことなのか。

この「死を超えて生きるために」のコースは、もっとも初心者向けと言われています。

 

死は、誰もに平等にやってくるものです。

 

そのときに後悔しないよう、自分の人生を生きることの準備を今したいひとにおすすめです。

 

またね。

 

えつこ

 

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