矢野さん | ウル虎のぉと

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そのときそのとき興味のあることを

只今、大阪を出発した夜行バスの中です。

ピグとも(もはやリアともなんですけど)のようちゃんから、
9月29日の巨人戦と30日の横浜戦のチケットが余ってると告げられ、
参戦することになった今回の大阪帰省。

9月29日の巨人戦と言えば、2005年に優勝を決めたのと同日同カード。
ましてや甲子園の巨人戦で新井がレフト前にサヨナラタイムリーを
打つ夢を見ていたので、縁起が良いと思って参戦を決意しました。

さらに30日が甲子園最終戦で、矢野さんの引退試合になるはずなので、
これは行かないわけにはいきません。

矢野さんが1998年に関川、久慈との交換トレードでやって来たとき、
阪神は暗黒時代の真っ只中でした。

暗黒の原因はいろいろありましたが、一番大きな原因は、
山田勝彦が正捕手という状況にあると考えていた私は、
ヤクルトの古田みたいなキャッチャーがいればなぁ…と羨む日々でした。

古田は兵庫県川西市出身で、小さい頃から阪神ファン。
ただメガネをかけているからという理由だけでドラフト指名を見送り、
ヤクルトで球界ナンバーワンキャッチャーになっただけに、
実に残念で仕方がなかったのです。

でも矢野さんも地元大阪市出身で、阪神で花開くと信じていました。

少々時間はかかりましたが、ノムさんの教えを忠実に聞き入れ、
2003年と2005年の優勝に貢献。ベストナインに3度も選ばれ、
名実ともにリーグナンバーワンのキャッチャーになってくれたのです。

これでもう古田を羨む必要などまったくありません。
つまり矢野さんは、ファンが待ち望んだ夢のような存在だったのです。

しかも、横浜スタジアムで3打席連続ホームランを打ったり、
神宮で私の嫌いな藤井秀悟(当時ヤクルト)からホームランを打ったり、
私が球場で観戦しているときに、かなりの確率で活躍してくれました。

だから引退試合では、実際に球場で拍手を送りたい。
いや、拍手を送る義務があると感じていました。

土・日・祝日に仕事をして振休を稼ぎ、現場と調整。
あとは阪神が順調に勝ち進み、9月28日にマジック1にしてくれるのを
待つだけだったのですが…

観戦当日までのチーム状況は、こりゃ優勝できへんなと思える試合が続き、
首の皮一枚可能性が残っているという非常に厳しい状況になっていました。

まあ、それは仕方ないとして、せっかく遠路はるばるやって来たのだから
矢野さんの最後の勇姿を見届けるのが最大の目的と気持ちを切り替えました。

しかし、しかし、矢野さん出てきませんね…
球場全体で矢野コールが起こっているのに、監督さんが使いません。

きっと8回裏に代打で登場して、そのまま9回に守りにつくんだろうと。

てなことを考えてるうちに、8回裏の攻撃があっさり終わり、
アレ?守備だけ?
と思ったら、球児が出てくるも、キャッチャーは城島のまま…
そしたら逆転されて、結局出番のないままゲームセット。

オイオイオイ、使わんわ、負けるわ、自力V消滅するわ、
最後の最後まで采配ミスするってなんやねん。
もう真弓監督辞めてくれ。

暴動が起こっても仕方がない状況の中、粛々とセレモニーが始まります。

矢野さんのスピーチは最初から声が震えていて、それだけで涙が
出そうになりましたが、記者会見のときに言っていたのと同じく、
自分が想像していた野球人生よりも素晴らしくて、夢のようだった
という言葉がすべてで、そんな素晴らしい人生に涙は似合わないと思い、
グッとこらえてただただ拍手です。

矢野さんの引退はとにかく寂しくて、信じたくなくて。
でもそんなことばかり考えていたら、涙が溢れ出てしまう状況を、
前向きに受け止められるように防いでくれているようで。

それでも溢れそうになった涙は、我々の夢であった強い阪神の復活と、
矢野さんが夢のようだったと感じた野球人生が重なっていて、
同じ夢を共有していたんだとわかった嬉し涙でした。

矢野さんが発する言葉や振る舞いはとても爽やかで、
人柄がにじみ出る素晴らしいセレモニーになりました。

私が生まれてから見てきた中で、間違いなく阪神タイガースの
ナンバーワンキャッチャーです。

矢野さん、20年間お疲れさまでした。
本当にもう、来年からでも監督になっていただきたいです。

チケットの手配をしてくれたようちゃん、ありがとう。また誘ってね。

もんじゃ焼きの予約をしてくれたぷちゅん、いつもありがとう。

素敵なお好み焼きをサービスしてくれた店長のTOMさんもありがとう。
また大阪に帰ったときはお邪魔させていただきます。