ヴォートリンの4月2日と4月15日の日記の記述についての、別の見方のもの、これから見るとこう思うかもしれない、というもの。

 

①まず、紅卍字会の埋葬記録を見ると、12月28日の記録について、その規模の大きさというものが思われ、それはそれとして、ヴォートリンの日記を同埋葬記録などと合わせて見、その内訳について整理するなかで、思ったりすることがあり、そして、12月28日の記録について、そのようなものはなされていない、また、城内で見つけたものの埋葬数が1万以上や1万近くあったということはない、ということを思う。

 

②それを踏まえて、おそらくベイツが書いていると思う3月21日付の文書の死者についての記述を見ると、死者数について城内で1万人の死者があったと見積もられる、とあるが、そうであったとは思わず、これはベイツが記そうとして記したものなのかもしれないと思い、また、文章から考えてそれはこれらの人々(these people)により見積もられたと書かれていると思うが、そのような人たちがいたのかどうか、いたとしてそのようなものを見積もったのかどうか、というようなことを思い、そして、そのこれらの人々(these people)が、死者数の合計の30パーセントを市民と見積もった、と記されているが、それについても、どのようなものなのかと思う。それについても、ベイツが記そうとして記したものなのかもしれない、というようなことを思う。

 

③、②そうであるとして、ベイツは、6月以降に完成した冊子・南京地区戦禍(War Damage in the Nanking Area)や11月29日付の手紙で、1万人以上(1万2千人)の市民の死者があったと記しており、この文書においては、市民割合で1万人以上の死者があったと記そうとして、そのようなものが記されているのかもしれないと思う。

 

④3月21日付の文書の死者についての記述、市民割合について、そのように思い、そしてそれからヴォートリンの日記の記述を見ると、それと似たようなものであるように思われ、ベイツの関与により同じように書かれているのかもしれないと思う。

 

https://stat.ameba.jp/user_images/20231104/12/nnkn-s/77/b5/p/o3250243015359902907.png

 

①の一つ目について。

 

12月28日の記録

 

極東国際軍事裁判の検察側に提出された、日本軍入城後に南京を囲む城壁の内外で埋葬活動を行った紅卍字会の埋葬記録がある。

 

このうち、12月22日から4月30日までの、城内で見つけ城外に埋葬したものの記録を見ると、日別に整理して、以下のようになる。

 

12月22日  670
12月28日 6468
01月23日  431
02月23日  106
02月28日    87
03月25日  799
04月14日 1177

 

12月28日の埋葬数は突出しており、考え方がわからずに頭が止まるようなところがある。そのまま受けとることは一旦留保される、またはした方がいいかもしれないと思うようなものであるように思う。

 

①の二つ目について。

 

4月2日のヴォートリンの日記

 

4月2日のヴォートリンの日記には、紅卍字会は、1月23日から3月19日までの間に埋葬数3万2104体の遺体を埋葬した、とある。

 

この期間について、次のことを思う。

 

1、この報告がなされたのは、この日記が記されているのと同じ4月2日で、その報告された埋葬の期間は10日以上前(3月19日)までのものになる。

2、4月16日付の大阪朝日新聞の北支版には、次のような記述があるらしい。
 

最近までに城内で一千七百九十三體、城外で三萬三百十一體を片づけた


合わせると3万2104体となり、4月2日の記述と一致する。

この記事自体の日付はわからないが、すなわち、4月16日付の新聞に掲載された記述に、最近までに3万2104人の遺体を埋葬した、ということが記されている。

3、4月15日の日記に記された埋葬についての報告は、こちらも日記が記されたその日に聞いたもので、そしてこちらは、その期間はその前日の4月14日までになる。

これらを考えると、期間は3月19日までなのかどうか、ということを思う。

 

これを踏まえ、紅卍字会埋葬記録について、その3月19日までと3月末(27日)までの埋葬数を、12月28日の記録を含まない場合と含む場合とで出して見ると、次のようになる。

 

[紅卍字会埋葬記録の期間埋葬数]

12月22日から3月19日まで 3万0524 3万6992(12月28日含)
12月22日から3月27日まで 3万2310 3万8778(12月28日含)

 

これを見ると、ヴォートリンの4月2日の日記に記された埋葬数(3万2104)は、期間を記された通りに3月19日までと考えても、3月末(27日)までと考えても、それに12月28日の記録を含まないように思う。

 

4月2日、4月15日の日記の記述と増加分

 

次に、まず、4月2日の日記の記述について考える。

 

上に見た大阪朝日新聞・北支版の記事から、4月2日の日記に記された3万2104の埋葬は、その内訳について、城内で見つけ城内で埋葬したものが1793、城内外で見つけ城外に埋葬したものが3万311であると考えられる。

 

これについては、紅卍字会埋葬記録を見ても、城内で見つけたものを城内で埋葬したというのは、2月までで、合計は同様に1793になる。

 

これから、ヴォートリンの日記の両日の記述は、以下のように整理される。

 

 

4月2日の日記に記された報告から、4月15日の日記に記された報告は、埋葬数が9278増加しているということになる。また、それは全て城内外で見つけ城外に埋葬したものの埋葬数になる。

 

増加分(9278)についての考えと12月28日の記録

 

この増加分について考える。

 

まず、4月15日の日記に記されているのは4月14日までの埋葬数になる。

 

紅卍字会埋葬記録における4月前半の埋葬記録を見ると、4月14日に城内で見つけた1177人の遺体を城外に埋葬した、というものひとつになる。

 

また、同記録における3月19日以降の3月の埋葬記録は、以下のようになり、埋葬数は合わせて1786になる。

 

3月23日 城外で見つけたものを城外で埋葬 354
3月24日 城外で見つけたものを城外で埋葬 133
3月25日 城内で見つけたものを城外に埋葬 799
3月27日 城外で見つけたものを城外で埋葬 500(1786)
[ 4月14日 城内で見つけたものを城外に埋葬 1177(2963)]

 

したがって、紅卍字会埋葬記録から考えると、4月2日の日記に記された埋葬の期間を3月末(27日)までと考えても、3月19日までと考えても、それ以降から4月14日までの埋葬数は1177または2963になる。

 

これらは、いずれにしても、4月2日の日記に記された埋葬数からの、4月15日の日記に記された埋葬数の増加分である9278とは大きな隔たりがある。

 

いま、紅卍字会埋葬記録の12月28日の記録をこれらに加えると、

 

4月14日 と12月28日 7645
3月23日から3月27日までと4月14日 と12月28日 9431

 

となる。

 

これは、増加分である9278とより近い規模感になると思う。

 

ここから、紅卍字会埋葬記録の12月28日の記録は、4月15日の日記に記された埋葬数の、4月2日の日記の記述からの埋葬数の増加分に含まれていると思う。

 

 

また、したがって、増加分の内訳は、4月2日の日記の埋葬を3月末までのものと考えて、以下のように考えられると思う。

 

[増加分](4月2日の日記の埋葬が3月末までの場合)
1177 4月14日 城内で見つけたものを城外に埋葬
6468 12月28日 城内で見つけたものを城外に埋葬
1633 不明 城外に埋葬
――――――――――――――――――――
9278

 

また、更に考えると、12月28日の記録は、増加分に含まれていると思うというより、含まれている必要があると思う。

 

そして、増加分に含まれている必要があるので、4月2日の日記に記された埋葬数には含まれていない、いない必要がある、ということになると思う。

 

(※)
同じようなことになるが、紅卍字会埋葬記録の4月14日までの埋葬数を、12月28日の記録を含まない場合と含む場合とで見ると、以下のようになり、ここからも、またはここからは、4月15日の日記に記された期間埋葬数(期間 1月中旬から4月14日、埋葬数 4万1382)は、紅卍字会埋葬記録の12月28日の記録を含む、と考えられると思う。

 

[紅卍字会埋葬記録の期間埋葬数]

12月22日から4月14日まで 3万3487 3万9955(12月28日含)
[ 12月22日から4月30日まで 3万5442 4万1910(12月28日含)]

 

まとめ

 

以上から、

 

ヴォートリンの4月2日の日記の、1月23日から3月19日までの埋葬数3万2104には、紅卍字会埋葬記録の12月28日の記録は含まれない

 

ヴォートリンの4月15日の日記の、1月中旬から4月14日までの埋葬数4万1382は、紅卍字会埋葬記録の12月28日の記録が含まれる

 

また、紅卍字会埋葬記録の12月28日の記録は、3月後半から4月前半の間に、その記録に書き加えられた

 

というように考えられると思う。

 

①の三つ目と②に関して

 

3月までの城内で見つけたものの埋葬数と12月28日の記録

 

紅卍字会埋葬記録を見ると、3月までの城内で見つけたものの埋葬数は3866になる。

 

これに12月28日の記録、城内で見つけた6468人の遺体を城外に埋葬、というものを加えると、3866+6468=10334となる。

 

12月28日の記録は、まず、他の城内で見つけたものを城外に埋葬したという記録とは、規模がかなり異なっており、考え方がわからずに、思考が止まるようなところがある。

 

かつ、それはヴォートリンの4月2日の日記の1/23~3/19までの埋葬数3万2104には含まれているとは思われず、また、4月15日の日記の1月中旬~4/14までの埋葬数4万1382には含まれている、いる必要がある、と考えられる。

 

またそれから、12月28日の記録だが、それは3月後半から4月前半に紅卍字会埋葬記録に書き加えられたと考えられる。

 

そして、それが加えられると、城内で見つけたものの埋葬数が1万334になる。

 

城内における死者が1万人以上ということを記しているのは、そして、ベイツになる。

 

3月21日付の安全区スタッフによると記された、現在の状況についての覚え書きは、おそらくベイツにより書かれているが、そこには、1万人が城内で死亡したということが記されている。

 

12月28日の埋葬記録は、規模や、また書き加えられた時期などから、あったとは思われないもので、それを含めない場合、紅卍字会埋葬記録における、城内で見つけたものの埋葬数は、3月までで3866、4月までで5千ほど、10月まで5千数百ほどになり、1万以上とか、1万近くにはならない。

 

紅卍字会埋葬記録には、ベイツのために、ベイツまたは協力者が、その記録を、その3月後半から4月前半に、書き加えたと思う。

 

また、

 

以上のように考えたあとに、3月21日付の文書の記述を見ると、これを書いている時点で、ベイツは、城内で見つけたものの埋葬数が、1万以上とか、1万近くではないということを、把握、認識していたのかもしれないと思う。

 

そこには、「埋葬に関心のある諸団体からの情報」と「他の観察」を合わせて、1万人が城内、3万人が城外で死亡したと見積もられる、と記されている。

 

このように記されていることは、ベイツがこれを記す時点において、城内で見つけたものの埋葬数が、1万以上とか、1万近くではないということを、把握、認識していた、ということを考えさせるかもしれないと思う。

 


①の考えから、3月21日付の文書について、城内で1万人の死者があったとあるが、そうであったとは思わず、また、上に見たものから、ベイツは、これを書くに際して、1万以上とか、1万近くあるということはない、と認識していたと思う。

そのようなものであると思うが、その文書には、「城内で1万人、城外で3万人の死者があったと見積もられる(it is estimated)」と記されている。

そして、これらの人々(these people)が、その合計の30パーセントを市民と見積もった(estimated)と記されている。

 

3月21日付の文書の死者についての記述は、一行目に、

 

Putting together information from organizations interested in burying the dead and other observations, it is estimated that 10,000 persons were killed inside the walls of Nanking and about 30,000 outside the walls -- this latter figure depends upon not going too far along the river bank!

死者の埋葬に関心のある諸組織からの情報と他の観察を合わせて、1万人の人々が南京城内で、そして、およそ3万人が城外で死亡した(killed)と見積もられる――後者の数字は河岸からあまり遠くへ行かないところに拠っている!

 

とあり、誰による見積もりなのか定かではないが、二行目に、

 

These people estimated that of this total about 30 per cent were civilians.

これらの人々は合計のおよそ30パーセントが市民であったと見積もられる。

 

とあり、文章から考えて、一行目の死者数についての見積もりは、二行目の市民割合についての見積もりとともに、これらの人々(these people)によるものであるということになると思う。


死者数についての見積もりは、そうであるとは思わない、かつ、ベイツもそうであるとは思っていなかった、ベイツが記そうとして記したものであると思う。

 

それが他の人々により見積もられたというように記されているが、そのような人はいないか、そのように見積もったようなそのような人はいない、と思う。

 

したがって、他の人々による見積もりとしてそのような見積もりが見積もられた、ということをベイツは記そうとし、記したのかもしれないと思う。

 

もうひとつの見積もりである、市民割合についての見積もりも、同じようなものであると思う、またはそう思いうると思う。これらの人々(these)や、その見積もりは、どのようなものなのかと思うようなものなのであり、これについてもそのように思いうると思う。

 

ベイツは、③のように、1万人以上の市民の死者があったということを記しており、この文書の市民割合は、記そうとして記されたのであるとして、そのようなことを記すために記されたものであるのかもしれないと思う。

 

ベイツはすなわち、1万人以上の市民の死者があったということを市民割合によって記そうとし、かつ、他の人々による見積もりとして記そうとし、そのように記したのかもしれないと思う。

 

④は、このような②から見て、同じようなものであるように見えると思う。

 

また、ヴォートリンの4月15日の日記の記述と、南京地区戦禍(War Damage in the Nanking Area)のベイツによる注釈、1946年7月29日のベイツの発言は、似たような感じであり、ここからも、ヴォートリンの4月15日の日記の記述における、ベイツの関与があるかもしれないと、思いうる、と思う。