「東京裁判の判決は、昭和二十三年(一九四八年)十一月四日から十二日まで、七日間に亘って裁判長により朗読され」たらしい。

 

その、南京に関しての、個人への判決の、松井石根(いわね)将軍への判決に次のようなものがあるらしい。

 

1995年の本

残虐行為が広く行われたことは日本人証人によって否定されたが、色々な国籍の、また疑いのない信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日にこの都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまで止まなかった。

 

 色々な国籍は、米国人および独国人を指すと思う。

 

1.

 極東軍事裁判に提出された南京に関する独国人の文書は二つある。

 

 一つは南京残留ドイツ人ラーベの1938年1月14日付の文書であり、そこには次のようなことが書かれている。

 

1938年1月14日付 ラーベの報告(英訳)

[...] ,violated about 20,000 women and girls, slayed thousands of innocent civilians [...]

 

〔…〕2万ほどの女性と少女をviolatedし、数千人の無辜の市民をslayedした〔…〕

 

 前者については、ベイツの誘導的な雑談でもあったのではないかと思う。この報告自体ベイツによって書くことが促されていると思うが、推測になるが、委員会の委員であることが説得の際の理由にあったのではないかと思う。内容についてもベイツの指示や依頼、提案があったと思う。

 

 後者については、12月から1月は、ベイツが、兵士の規模を小さくしようとしたり、unarmed personsで兵士と市民を合わせたりしていた頃であり、ベイツの認識からしても過大だと思う。

 

 もう一つの文書は、あるドイツ人目撃者(a German witnes)の報告になるが、これはベイツが書いたものだと思う。

 

 ドイツ人の文書はしたがって、米国人宣教師ベイツ関係のものになると思う。

 

2.

 独国人以外は米国人になる。

 

2-1.

 他に文書を提出した南京残留欧米人は、ベイツ、マギー、ウィルソン、スマイス、フィッチであり、また、マッカラムの日記的な文書も提出されている。

 

6月07日南京 スマイス(宣誓供述書)

6月18日(東京?) フィッチ

6月22日東京 ウィルソン

6月25日東京 ベイツ、マギー

6月27日南京 マッカラムの日記的記述

 

 発言をしたのはベイツ、マギー、ウィルソンの3人になる。

 

7月25日、26日 ウィルソン

7月29日 ベイツ

8月15日、16日 マギー

 

 以上は全員米国人宣教師になる。

 

2-2.

 期間などについて、6、7週間続いたと、各人が記述や発言を合わせていることは別に見た。話が逸れるが、これについては、判決では1937年12月13日から1938年2月の頭までとあるが、残留欧米人の記述を見て、最初の3日くらいは何かがあったようには思わず、16日頃からはおそらく違いがあり、12月下旬の間にまた様子が変わっている。

 

 6、7週間というのが極東軍事裁判の期間なのかベイツの期間なのかわからないが、ベイツがまとめていると思う。

 

 また、フィッチの提出文書については、当時の手紙の抜粋や言い換えとされているが、おそらくその大体の箇所がベイツの書いたもので、また、この抜粋や言い換えもベイツによりなされていると思う。

 

 それぞれにおいて独自の記述、発言内容もあると思うが、基調やまとめというものが、ベイツであると思う。

 

2-3.

 他の、文書を出したり発言をしたりした人について述べる。

 

 まず、1946年にサトン検察官が発言してくれる人などを探しているときに、以下のような記述があるように、残留米国人宣教師ミルズは候補者だったが、文書も出していないし、発言もしていない。

 

1946年5月1日付 サトン検察官からキーナン首席検察官への文書

|中国からの報告ー経済的攻撃

|Report from China - Economic Aggression

|4月23日付の記述?

It is anticipated that both of these gentlemen [Dr. M.S. Bates and Mr. W. P. Mills] will be asked to appear as witnesses with regard to the atrocities at Nanking and they can give excellent testimony to the economic aggression in China.

 

これらの紳士の両者〔ベイツとミルズ〕は南京におけるatrocitiesに関する目撃者として現れることを頼まれるだろうと予期されます、そして彼らは中国における経済的攻撃についての素晴らしい証言を与えることができます。

 

 文書を出したり発言をしたりした人については、次のように言えると思う。

 

 ウィルソンは軽く、最初から付き合い続けたのだと思う。

 

 マギーは流れでもしかすると捕まったのかもしれない。マギーは米国から来ていて、以下のように、ベイツに会うことを望んでいたらしい。

 

1946年6月5日付文書 遠隔会議/teleconference

Dr. Magee is bringing with him the pictures he took at Nanking. He would like to visit his associates in Nanking while on this trip. Can you arrange for him to do so? He gave me the name of Searle Bates, a missionary in China, now at the University of Nanking, who was also a witness to the Japanese atrocities at Nanking. You may want to call him to Tokyo as a witness.

 

〔今週末東京へ向けて出発する〕マギー博士は彼が南京で撮った写真を一緒に持ってきている。彼はこの移動(trip)の間に南京の彼の知り合い(associates)を訪ねたがっている。あなたは彼がそれをできるように手配することができますか。彼は私に、中国における宣教師で、現在南京大学の、同様に南京における日本軍のatrocitiesの目撃者である、シール・ベイツの名前を挙げた(gave)。あなたはおそらく彼を目撃者として東京に呼びたいでしょう。

 

 スマイスは発言をしたくなかったと思う。したがって、文書の提出にとどめ、発言は断ったと思う。

 

 フィッチはおそらく意欲的だったが、ボロが出ることを懸念されて、ベイツにより中国に返されたのかもしれないと思う。

 

 マッカラムは、まずその日記的記述自体、ベイツの指示や依頼に応じる形で書いたものだと思う。発信等することは、マッカラムが断ったのかどうかはわからない。極東軍事裁判においては、それを出すことになったのだと思う。

 

3.

 そしてベイツは、上の判決に述べられているような所謂中立的な人物ではなかったと思う。

 

3-1.

 1946年4月6日に南京で南京残留中国人Hsu Chuan-Yingが文書を提出している。C. Y. Hsuは国際委員会の住宅供給委員会の委員長だった。また、おそらく基督教徒ではないが、米国留学者で英語ができ、委員会との意思疏通のために、紅卍字会の副会長をその時務めていた。

 

 C. Y. Hsuの文書には南京城内や周辺で20万人の市民がkilledされたという旨のことが書かれている。

 

 この文書には、ベイツ的な記述、1938年、1939年のベイツの文章と似たような記述がある段落がいくつかある。

 

 それをベイツが書いているとは思わないが、この文書にはベイツの関与があると思う。

 

3-2.

 ベイツが1946年6月25日に東京で提出した文書では、1938年1月10日付の自身の手紙や、3月にスマイスにより始められた南京市内や南京を含む県(hsien)や周辺県(hsien)についての調査を基本にした6月に完成した冊子について詳しく述べられている。

 

 手紙では本題に入る段落の一行目に1万人以上のunarmed personsがkilledされたと書かれているが、提出文書における手紙についての言及ではkilledについては何も書かれていない。

 

 冊子には、ベイツが、城内の死傷の節の注釈に、スマイスの調査見積りとは別の1万2千人の市民がkilledされたということを書いているが、提出文書における冊子についての言及では城内のkilledについては何も述べられていない。

 

4.

 南京に残った市民の人口は20万-25万人ほどで、殆ど全てが避難区域に集まっていた。

 

 ウィルソンは50万人未満と発言し、マギーは区域に20万人、城内の区域外に30万人、と発言した。

 

 要約なのか翻訳なのかわからないが、判決で南京について述べる中で、人口は50万人未満という旨のことが述べられている。

 

〔…〕百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するため残留した少数の者を除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。

 

 百万の住民の半数以上〔…〕、この市から避難した、とあるので、50万人未満ということになる。

 

 1946年の検察側の立証のときに人口の話は退けられたらしい。

 

〔…〕二人のアメリカ人弁護士から、〔…〕当時の南京の人口は二十万人だったのではないか、という点について申し立てを行ったが裁判長は、「〔…〕、南京人口の件は後刻弁護側立証段階で立証すべき事柄であって、今申し立てるべき事柄ではない」とこの申し立ても却下した。

 

 極東軍事裁判、裁判長は人口について扱わなかった。

 ウィルソン、マギーは7月、8月に人口は50万人未満、区域に20万人、城内区域外に30万人と発言した。

 ベイツは6月の提出文書でそれ(killed)が記された手紙や冊子について詳しく述べながらkilledについては記さなかった。

 ベイツは20万人の市民がkilledされたことについて記したC. Y. Hsuの4月に南京で提出した文書に関与している。

 

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