1.

 1946年4月6日提出のC. Y. Hsuの文書や発言については、ベイツ事件2のその他で見たが、文書にベイツの記述との類似性が見られ、ベイツが関与していることが考えられた。

 

 C. Y. Hsuは米国留学者で英語ができ、避難区域のための国際委員会の一員で、その住宅供給委員会の長であり、英語ができるということで、意志疎通のために、おそらくは一時的な紅卍字会の副会長を勤めていた。その後、改称しての国際救済委員会においても、そのメンバーとして動いていた。

 

 Shui Feng Tsenは1946年4月8日におそらく文書を提出している。

 

 ヴォートリンの日記でMrs. Tsenとして出てくるおそらくShui Feng Tsenは、1924年くらいから金陵女子大学に勤めていたらしい。Shui Feng Tsenもおそらく英語ができて、そのためにもこの文書が出されているのではないかと思う。

 

2.

 両者の文書には、以下のように、類似の記述が見られる。

 

 これは、当時の同じような経験などのためではなく、文書を記すに当たっての、同じような影響、関与、働きかけのためだと思う。

 

1946年4月6日南京 C. Y. Hsuの文書

There were some 25 camps of refugees and there were not enough foreign citizens to look after all of them, and the worst atrocities were at those camps which were distant from the University grounds and from the missionary house.

 

25ほどの避難民のキャンプがあり、それらの全ての面倒を見る十分な外国の市民はいなかった、そして最も酷いatrocitiesは大学の敷地や宣教師の家から離れたそれらのキャンプであった。

 

1946年4月8日南京 Shui Feng Tsenの文書

In other safety zones where there were no foreigners like Miss Vautrin to help them the situation was much worse than at Ginling College. 

 

その場所を助けるヴォートリンさんのような外国人のいない他の安全区では、状況は金陵女子大学よりもずっと悪かった。

 

 Shui Feng Tsenの他の安全区(other safety zones)というのは、南京の避難区域の別の場所のことだと思う。

 

 それで、両者は同様の影響や関与、働きかけのもとにあると思うが、互いには別々なのか、関係があるのか、ということを次の点から、または次の点について考える。

 

3.

 期間について見ると、両者には差がある。

 

 期間について、C. Y. Hsuは以下のように3か月(13週間)と述べている。

 

1946年4月6日南京 C. Y. Hsuの文書

which continued for almost three months following the fall of the city and then gradually ceased.

 

それ〔行い〕は街の陥落の後殆ど3ヶ月続き、そしてそれから徐々に止んだ。

 

 Shui Feng Tsenは次のように4、5週間と書いている。

 

1946年4月8日南京 Shui Feng Tsenの文書

It was five or four weeks before the situation began to cease and then several months before the danger was passed.

 

そのような状況が終わり始める前に4、5週間があった、そしてそれから、危険が過ぎるまでに数ヵ月があった。

 

 先に見た記述から、文書を書くにあたり同じ影響がおそらくあったと思うが、期間についてのこの二つの記述が互いに連関する合わせてのものなのか、そうでないのか、ということを考える。

 

 C. Y. Hsuは単に過大などに記したり発言したりしていて、Shui Feng Tsenはそうではない、つまり両者は別々、ということは普通にありうると思う。

 

 個人的には連関があるかどうかわからないが、ベイツが関与していると考えると、ベイツは幅を持たせたがるところがあるように思われ、そういうものが記述にあたりあるかもしれないと思う。

 

 マギーやウィルソンの6週間くらいというものからずれているのに意味があるのかどうか、ということもわからない。

 

 後者も、ベイツによる関与、またベイツとの話し合いか何かがあってあるものだと思うが、C. Y. HsuとShui Feng Tsenは1946年4月上旬、マギーやウィルソン、ベイツなどは6月下旬で、文書は二ヶ月半くらいの差がある。スマイスはやや曖昧に思える仕方で期間について書いているようないないようなという感じのことを書いているが、その文書は6月上旬になる。

 

 結論としては、無関係もありうるだろうし、わからない、というものになる。

 

 6週間くらいというこの期間については、別に見るが、極東軍事裁判の規模ではなく、ベイツの関係のものなのではないかと思う。

 

 そして、両者の期間についての記述がどうであれ、両者とも、文書を記すにあたり、同じ関与、影響、働きかけがあったと思う。