エドワード・ボックは1週間に6.25ドルという給料で、電報通信会社のウェスタン・ユニオンの雑用係になるために、13歳で学校をやめた。
 その後、いろいろな仕事を経験した。新聞のレポーターとして働いたし、劇場のプログラムも作った。そして、『ザ・ブルックリン・マガジン』を編集していたときに、『ザ・サタデイ・イブニング・ポスト(The Saturday Evening Post)』の発行人サイラス・カーティス(Cyrus Cirtis)と出会った。 サイラス・カーティスはそのとき『ザ・レディーズ・ホーム・ジャーナル(The Ladies' Home Journal)の編集者を探していた。
 1889年にボックは『ザ・レディーズ・ホーム・ジャーナル』の仕事を手に入れ、その後30年間も編集長として仕事を続けることができた。
 その間、彼は自然環境の保護を支持する立場で雑誌を編集したり、性病に関する記事を積極的に掲載したりした。また、売薬広告の受け入れ拒否を含めて、編集者の役割は進歩的な立場を取るべきであるという考え方を確立した。彼の万能薬に反対する運動は「ピュア・フード・アンド・ドラッグ法」の制定につながった。 
 彼は、「奥さん・・・、お母さん・・・、あなた・・・」と呼びかけ、女性の読者と非常にうまくコミュニケーションをとった。特に、子どもの育て方のアドバイスは好評で、読者の熱狂的な反応を呼んだ。
 例えば、「お母さん、あなたの娘さんが編集者の所に手紙を出すのは、あなたの家に何か問題があるからです。特にあなたに何か問題があります」と読者の母親に忠告した。 
 こんな風に、全く見知らぬ人間が母親に話しかけたのである。この編集ページは不朽のものとなった。このページのアイデアはそれ以来長く、多くの女性誌が採用し続けた編集アイデアとなったのである。  
 『ザ・レディーズ・ホーム・ジャーナル』は現在も生き続けているが、カーティスのもう一つの誇り高き週刊誌『ザ・サタデイ・イブニング・ポスト』は1969年に部数が350万部にもかかわらず姿を消した。