ノーベル賞は、一九〇一年に、十九世紀にダイナマイトを発明して巨万の富を築いたスウェーデン人のアルフレッド・ノーベルの遺言によってつくられた。
 その遺言の動機は、ノーベルが自分の死後に、自分に与えられる「死の商人」という評価を払拭したいと思ったからである。
 実際に、欧州諸国がダイナマイトを戦争で使用するようになってから、戦争はより大きな破壊を生み出し、現在に至るまで耐え難いほどの多くの兵士と諸国民の命が失われた。その悲惨な悲劇の起点は、ノーベルのダイナマイト発明であろう。
 まあ、原子爆弾を発明した男や、原子爆弾を初めて日本国民を殺すために使用しようと決めた男(F・ルーズベルト)や、実際に使用した男(トルーマン)が、死後に自分に着せられる汚名を回避するために、金にまかせて賞をつくったようなものだ。
 よって、この歴史から見るならば、ノーベル賞創設は、中世キリスト教の世界において、教会に金を払って「免罪符」をもらうのと同じ欧米人の発想によるものである。

 とはいえ、ノーベルは幸せな男こである。「死の商人」という汚名から逃れたいという彼のこの無邪気な願いは、叶えられたのだ。
 ノーベル賞は、一九〇一年以来、はじめは、欧米の白人だけに、第二次世界大戦後には、有色人種にも、贈られて普遍的な賞となった。
 そして、今や、ノーベル賞の受賞は、学者として世界的な業績を讃えられる最大の名誉となっただけではなく、受賞者を生み出した国家の名誉ともみなされるものとなった。

 そこで、ノーベル賞が、このように世界的な大きなインパクトをもたらすものとなったが故に、意見を申し述べておきたい。
 
 ノーベル賞には、文学賞と平和賞はいらない。

 物理学や医学という自然科学の分野におけるノーベル賞は、業績が客観的に判断できる。
 しかし、文学と平和は、客観的な判断基準はない。だから、この分野に、ノーベル賞は不適切である。
 
 文学賞には、例えば我が国の芥川賞や直木賞がある。つまり、日本語世界の文学賞である。これでいい。
 しかし、スウェーデンあたりで、世界中の諸民族の文学作品の中からノーベル賞を選ぶなど、できるものか。
 できるのは、せいぜい、読者数の競争であろう。しかしこれは、文学を競うこととは別次元である。
 この度も、書店に受賞候補の作家の本が積み上げられており、受賞と同時に売り出されようとしていた。
 この現象をニュースで見て、ノーベル賞に文学賞は必要ではないと即断できた。そもそも、既に文学賞を受賞した左翼作家の言動を思うだけでも、ノーベル文学賞は不必要、むしろ迷惑である。
 「永遠の0」や「海賊とよばれた男」を書いた百田尚樹氏が受賞者だったら、もうすこし考えてもいいが。

 次ぎに、ノーベル平和賞。
 


 以下、西村眞悟HP内「眞悟の時事通信」にて。
http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1021