数年前に妹から

「私はいまだに腹が立つ」

と言われた。

なんのことかと思ったら、

「父が、あんたを大学に行かせなかったことについて、いま考えても頭にくる」

 

なんだ、そんなことかい。

 

私は少しもハラガタチマセンがな。

でも、当時は四日間泣き続けた。今のように思える日がくるとその時は思ってなかった。

 

さらっと話しますと、

 

我が家は三人きょうだい。一番上が私で下に二人おります。

彼らの成績はとってもお粗末なものでしたが父は、

ひとりには、関東の私大に行くのにもOKを出し、

もうひとりは、泣いて大学進学を拒否したのに、浪人させて四流大学に行かせました。

 

私は中学のときから編集者志望で志望大学も学科も中2で決めてました。

中3のときクラスで5番でしたが、そのクラスの6番までが私をのぞいて旧帝大に進学。

高3の冬になって、「女は短大でいい」という天の声によって、大学進学をあきらめました。

 

理不尽といえばこれほど理不尽なことはない。

 

なぜ大学進学になんの欲も興味もない下の二人には「どうか行ってくれ」という?

なぜ普通以上に行きたがっている長女に「行かせない」と言い張った?

 

推測ですけどね。

当時チチの同僚で

私の同級生の親にあたる人が「女は四大なんかやったらだめだ」とかの持論を吐く人がいて、

妹の同級生にあたる年齢の子を持つ同僚は「今時、大学行くのに男も女もない」という持論の人だったのではないか。

たぶんその程度のこと。うちのチチは自分の考えというのがなくて、時世に流されやすいのです。

でも父のそういう性格のおかげで、家族は苦労せず暮らせました。

 

話はここからです。

 

チチがなんといおうと、大学に行くことはできたのです。そりゃいけますよ。

 

早稲田の二文とかその他私大の夜間に行くなら、親の支援はいらないから、自分の気持ちひとつで決められる。

受かりさえすれば。

今多くのこどもがそれを選ばされ、社会問題になっている「奨学金ローン」のことは少しも考えなかったな。

大学卒業時にすでに数百万円の借金を背負うなんて、まともな考えではないと思ったから。

 

夜間大学に行くのはまともなことかどうか考えた。

 

わが親戚を見わたすと

チチ世代で大学にいった人は知る限り全員夜間大学卒だった。

どちらさまも、社会的にリッパなお仕事をしています。

夜間大学を出ていい仕事をしている人は、世間を見渡すと、私の少し上の世代にもいるし、なんの偏見もありませんでした。

 

また、夜間大学でなくても、親の支援なしで東京の私立大学を卒業した人は私の周囲に何人かいるので

苦学生として自分の力でがんばってみるという選択肢も、十分にあった。

 

だけど私はそれを選ばなかった。

なぜか?

 

そこにはとても明確な理由がありました。

 

私のような人が苦学生をやったら、社会の下のほうのくらーいところを生きる人になってしまうと考えたからです。

 

高校生の私は、

当時誰も言っていなかった「原発反対」とか「社会的弱者への差別反対」とかをテーマにした本への愛着著しく、

新聞部で書く原稿も、社会科の時間に書かされるレポートも、にっきょーそ系教師を喜ばせるようなものばかり書いていました。

残されて、放課後の教室で担任の教師に

「おまえは確信犯だな」と言われたのは、なんともうれしかったもんでした。

 

あと10年早く生まれていたらもっと面白かったのに、本気で思ってました。

映画でも文学でも音楽でも社会的な影響が色濃くてどれも好き。80年代より70年代カルチャーにそそられました。社会派なんです。デモとか誰もしてない時代に興味津々だった。

誰にもそんなこと言いませんでしたが。隠してましたが。

 

おまけに人の三倍自分に自信がなくて、自意識過剰ゆえ、ブスという意識が強い。

「自分=頭が悪い」も強かったが、それ以上に「自分=ブス」というポイントにしがみついて悩みつくしている。

朝鏡を見てあまりにひどい顔に耐えきれず学校行くのやめたり、呼吸不全かというくらい溜息をはーはーついて顔のことを悩んだりしていた。このタイプが苦学生デビューによって、貧乏のひがみや田舎ものの劣等感を全身にまとって都会生活をはじめたら、どんなに偏った人生になってしまうだろうか。と考えました。

 

暗くて真面目で毎日反省ばかりしていて何か言われるとすべてその通りだ、まちがっているのは私だ、と考える劣等感の強い私が苦学生をすると、このどうしようもなく愚かしい傾向はさらに強まるだろう。ブスはますますブスになる。

 

いやだ。避けたい。絶対に避けるべきだ。

ブスな苦学生を人生の始まりでやってはいけない。そんな私は好きじゃない。私が苦学生をするとろくな人生にならない。

 

そういうわけで

目がくるくる回るおもい身体をひきずって三者面談におもむき、ふるえる手で志望校を短大に書き換えた。

目がくるくる回るので、字がまっすぐ書けず、二行にわたって書いたのを教師が書き直した。

その日から四日間は朝から夜まで泣いて暮らした。

 

そして

自分がもっている自分らしさを、ここで一回全部捨てよう

という考えのもと、短大に入ってからはそれまでの自分ならしないようなことを意識して行いました。

世間から見ると普通のことです。合コンに出るとかディスコにいくとか。世間ふつうの人になるのを目標にしただけです。

なぜ自分の自分らしさを捨てないといけないと考えたのか、ちょっと思い出せません。

ただ、あまり型にはまっていると感じたような。自分という型にはまるのは早いと考えたような。

もっと可塑性のある自分でいたかった。

物を読んでいる以外の、起きてる時間のすべて音楽聞いてる人でしたがムリして頑張って聞かないようにしたりしたことも。

習慣で何かをしているのはイカンと考えたかも。

無意識にやっている習慣の行動の繰り返しは、自分を小さな世界に縛ってしまうからイカンと。

 

編集者になる目標はそこでついえたかに見えましたが

短大卒業後、一年間だけ人聞きのいい会社に勤めることにして、最初から会社を一年でやめるときめて貯金にいそしみ、自力で東京に行く準備に入りました。

 

もらった給金はほぼ全部貯金です。洋服も買わないので、チチは母に

「恵美子は男に貢ぎよるのじゃないか」と小声で言っているのを見たと妹が教えてくれました。

 

そしてぴったり1年後に会社をやめると、よく月、父親の反対を押し切って、東京に行きました。

 

そのとき21歳。

 

福岡時代の私は、まったく男ウケしませんでしたが、東京に引っ越すとその翌日からモテ期が始まりました。

テレビドラマでこういうシーン見たことあるな、というくらいの典型的モテかたで、

当時自分のとうきょうでの所属場所として映画関係の学校に行っていましたが

休み時間になると男が私の机を二重三重に取り囲んでいるという一瞬に気づいたとき

びっくりしました。私は福岡では典型的モテない女だったのですけど。

土地との相性というのはあるんですねえ。きっと。私と東京は相性がいいみたいでした。

 

女男とわず、職業も年齢もとわず、いい友達がいっぱいできました。

貧乏でしたが、その貧乏が少しも苦にならず、

劣等感なんてぜんぜんなくて、華やかな誰かをうらやましいと思うこともなくて、

あかるい東京暮らしがスタートしました。

 

アルバイトしようと編集関連の会社に何回か電話かけました。

 

「で。出身校は?」

「・・・」

「え? そんな学校聞いたことない」

 

と電話の向こうで言われたことがあった。十円玉を集めて公衆電話からかけました。

引っ越してすぐ。まだ電話も付ける前だったから。

 

なのに、最終的に朝日新聞の求人欄でみつけて私が勤めることになったいくつかの会社は、

どこもいろんな意味でいい会社でした。

学歴など誰も気にせず、実力だけで仕事の実績を積めて、経験とコネクションが加速的に増えて、

自分のしたいことをしつくす20代をすごすことができました。

 

勤めていた会社がよかったので、独立してからも仕事はとだえることなく、スムーズに末広がりで

同じ年齢の男性会社員の給与平均よりずっといい、という状態は海外にいっていた時をのぞいて最後まで。

バブルの恩恵にはぜんぜんあずかれなかった年代ですが(不倫してゴージャスする人が周囲に多かった年代ではあります)、

別に困ることはなかった。

「ギャラ(の額)で仕事を選ばない」「嫌な人とは仕事をしない」を徹底していたおかげで

仕事が大好きで楽しくて、どんなにたくさん仕事をしても苦にならない、という毎日を暮らせました。

 

やっぱり苦学生にならなくてよかった。

もしかしたら親の反対を受けずにするっと大学生になっていたらどうなったか。

実際に歩いた道より、「意に沿わないけど、よりまっとうな」社会人の歩き方をしてしまった気がします。

たぶんそう。そうならなくてよかった。

 

チチが私を大学に行かせなかった顛末を少ない数の人に話したことがありました。

「今からでもお父さんのとこに怒鳴り込みたい」

と言ってくれた人もいました。

 

でも結果としてチチは私の人生のジャンピングボード、ジャンプ台にしかならなかった。

怒る理由はどこにもありません。

 

哲学科やドイツ文学科といった進みたかったものに進んでいたら、想像もつかない未来に進んでいたかもしれない

と夢想することがあります。

編集者になりたいのと同じくらい「ドイツに住む」も中学のときの夢でありました。

取材で何回かドイツにいき、ドイツ人とは他の国の人より、仲良くなりやすいと思いました。

ニューヨークなんかよりミュンヘンあたりが私と相性よさそう。バイオリンを習ったり、クラシック音楽のコンサートに毎週行ったり、のんびりと豊かに暮らせたかもねえ。

 

 

親のせいでわたしはこうなった

 

とかスネて言ってみたいけど、そんなネタがあれば面白いのにと思うけど、そんなものはなにもないのです。

 

人生は無限の選択肢の積み重ね。ひとつ選択が違うまったく違う道に方向チェンジしたかもしれない。

今私がここにいることも、

数百か数千の選択の果てにある結果です。

 

がんになったことも、そのひとつ。

自由に選んで、自由に求めるものを求めた結果。

まあこの病気になる理由はほぼ運しかないから

主治医が言うように、道を歩いていたらヤリが降ってきた、という運だと思いますが。

この運を不運と名付けるかどうかは、まだわからない。

いまのとこ、私はそう思ってないです。

 

 

 

写真はお客様がくださった昨日到着の「後期の桃」の写真。

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錦自然農園