東京のゆかいな仲間たちレポート、まだ続きます☆

表参道のイタリアンレストランでお食事をしているとき、アートディレクターの友人が言いました。

「えみちゃんって『人生が体験取材』の人だったから、このがんも面白い流れにしてくれるんじゃないかって期待してるのよ」

私も言いました。

「そうなのよ。この際一回死んじゃって臨死体験レポートを書くために戻ってくるとか。生まれかわりは本当にありましたって、転生した二歳児になって書き手交代、とかね。そのとき著者は二人の名前になるのかな」

そこで一同大爆笑。

「あんまり早すぎると書く能力がないから、転生してからもうちょっと時間ほしいかもね」

と編集者の友人。
スピリチュアル方面に事情通のアートディレクターは、こんなことも言ってました。

「最近は生まれ変わりまでの時間が短くなってるんだって。近い場所に生まれ変わる人が増えているって話よ」

「ほう。そりゃいいね。みつけてもらいやすいってことね」と私。

「サンマ●ク出版の編集者が、本はまったく売れないけどスピリチュアルだけは売れてるからスピリチュアル企画があったら声かけてって言ってた」

とイラストレーターの友人。

「じゃ、そのときは企画提案よろしく。イラストも描いてね」

「もちろんよ!」


例のすぐ怒る“スピリチュアル有名人”の名前もここでは通じるので、爆笑につぐ爆笑でした。


ワタシが彼らより一足先に死ぬことが想定されていることを知りつつ、こういう話ができる友人がいるのはとてもありがたいです。

 


そこにいた編集者とアートディレクターは、私のがんの再発がわかったとき、「毎日、定刻に●日間二人で祈るから」と連絡をくれました。何日だったか忘れてごめんなさい。

その時刻には必ず布団に入っているようにして、ふたりの送ってくれているものを受け取るように心がけました。

数か月後に流れを一転させる押川先生との出会いを得られたのも、そこに原因があったかもしれません。
今頃気が付いたけど、お礼を言うの忘れてました。

編集者の友人は6年ほど前に「天使」を送ってくれまして、私はそれを浮遊する丸い三つの光としてみました。
トンデモ話続出ですが、友人たちは出版不況のこのご時世にもいい仕事をしているすご腕さんたち。
離れて住んでいても私の元気の源であります。


でも、ですね。


今年になって、
とてもリアルに死を考えられる立場になってからのわたしは、考え方が少し違ってきたようです。

「臨死体験は睡眠時の夢を語っているだけかもしれない」
「生まれ変わりはないとは言い切れないけど、あるという証拠がない」

10代のときから奇妙な体験の宝庫みたいな私は、寝ているときに天井の木目を間近に見てしまったとか、真夜中に天井から光がさんさんと差し込んでくるのを見たとか、意識がちゃんとあるのに、これは前世の風景かも、と思わせる光景を見てしまったとか、あげればきりがないほどいろいろあるんですが・・・・
ミャンマー人の友人からリアルな生まれ変わり体験を聞いたこともありますが・・・・・


根拠をあいまいにしたまま、信じることができない、と思うようになりました。


人は自分の死をほんとうにはイメージできない、という説があります。
フロイトだったかな。

ベッドに横たわり死体となった私が、周囲に家族をはべらせている光景。
お葬式に飾られている自分の写真、その写真をみつめる黒いスーツ姿のおっとの顔。

そんなことを思い浮かべることができたとしても、それを見ている視点があるということが、私は自分の死をまだ認めていないことになる。

魂だかなんだか、無限につらなる「私」があると思っている。



私の友人は男子中学生だったときに、父親の葬式で、
まだ親族しかいない時間に、葬儀会場で、
「お父さん、ここにいるんだったら、祭壇の右から5番目の菊を動かして」
といったのだとか。
すると、菊がかすかに揺れて、会場は阿鼻叫喚に包まれたそう。
「おじさんたちから、なに馬鹿なこと言うんだって怒られたんだけど、なんで怒るんだって中学生の俺は思ってた」


これをお父さんの魂だか霊だかの存在に結び付けるか、たまたまの偶然というか?

 

私は偶然だという。


人は全員死ぬ、ということを生きている人はみな知っているし、疑う余地はない。
だけど、死んだ先の情報は何ひとつ明らかではない。


A 宗教から信条ごとに答えをもらうか
B 物理的な知識から答えを得るか
C 哲学的に自力で答えに迫るか。

みなさんどれかを選んで、なんとなく納得しているから日常を生きている。
死に関してなんらかのイメージを持っているからお葬式にいったりできる。
ご冥福をお祈りいたします とかいえるけど、

死後に何かがあると、霊だかなんだかがあると信じてないと、ご冥福をおいのりできません。



私はどれを選んでいるのでしょうね。改めて考えるようになりました。
がんが「いい病気」だといわれるゆえんはここです。


じっくりと、自分の死を迎える準備ができるところ。

本当は誰もがそれをできるのに、リアルに死を感じられないために、先延ばしにし続ける人がほとんどではないかと思います。

言わせてもらうと私は、ずっと前から死に向き合う練習をしていました。
「二週間後に私の寿命がくることになっている」ときめて毎日を過ごす遊びはよくしました。
安易に人にいうと「うつ病?」って心配されますが、これはとってもおすすめです。
やってみれば、日々の充実度が変わるのがわかります。
 

私の葬式に私はいないわけですから、「これが最後のお別れなんだ」と思いながら
一人ひとりと会うわけです。そして別れるわけです。
何をされても、何を見ても、これが最後かもしれない思えばすべてがありがたい。


もともとヴィパッサナーをしていたことの影響は大きいと思います。
瞑想中、ここから先に行くのは怖い、とおびえるときがありました。
自分が消える怖さ。

たぶんそれはおそらく、死へ向かう怖さ。
自分が消える怖さに接してつぶっていた目をあけたことがありました。
無限の宇宙に溶け込み消えて「自分」と信じたものがじつは何の実態もなかったと認める怖さ。
死ぬのなんか平気だと思いながら、やっぱり怖がっている。

それを知るのもいい。
瞑想は死ぬ練習なんです。


ワタシ以外の人が死を恐れる理由はわかりませんが、私の場合はゼロになる恐怖かも。
 

何もない

 

何もないなら感じる主体もないので死を怖がる必要がないんですけどね

(瞑想は死と異なり、主体があるから怖がれる)。

 

 

そんな事態に我慢できないため、その頼りなさ、寒さ、怖さををごまかすために、宗教という物語をこしらえているのかもしれないと最近思います。


死は意識しようがしまいが、万人に訪れ、死にゆく順番も決まってないわけですから、誰もが死の練習または死に向き合う練習をしておくにこしたことはないと思います。


再発がわかってまもなくアマゾンから入手した本は、トルストイの『イワン・イリッチの死』。
買いはしたけど長いこと読めなかった。

思い込みで行動を決めるより、自分が思い込みしているのはなにかをわかりながら、『これを思い込むことにしよう』と決めている自分を自覚しながらいきたいですね。




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