うんこが暴く「行動主義」の如何様 | 西田篤史(心理士)のブログ

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春日井市の身の丈がショボい人間未満の原始人の心理士・西田篤史のブログです

 

 こんにちは。  

 

 「心理学は目に見える行動のみを研究すべきである」と言う「行動主義」による心理学での「学習」概念および知見には常識では得心できない部分があります。それについて短くお話します(特に第7パラグラフの末尾()内に注目してください)。  

 

 まずはじめに述べておきたいのは、「学習」と言うものは、たとい暗黙裏にではあっても、「意義(関係性の訴求力)に気づいた時点に成立する」と言うのが僕の考えです。人間くらい複雑な有機体では、「情報の時点で気にかけることは変わる(=気にかける時点で情報へのアクセスのあり方も決まる)」と言うことです。

 

 我々は、ある日お医者様がテレビで「ウ○コが臭いのはがんのサインです(=条件罰刺激→これはすでにひとつの対呈示型の条件付けになっている)」などと話しているのを聴き、その後の日常でたとえば「自分のウ○コが臭かった(成立した条件付けにおける罰刺激による強化)」などと言う経験を持つと、次の日からそのことを気に病むようになる(=条件付けの成立)でしょう。この現象を支配しているのは、「関係性の意義(訴求力)を知ること」であって、刺激と強化の先後性ではありません。あるいは何かで逆恨みしたひとが、幾日かして棒を見たら「これであいつらを叩き殺してやる」と思うかも知れません。ありがたいお話をしたひとが話をしてからひとしきりして「コホン」と咳をした。「いい話をするのには喉が大変なんだな」と我々が認識する。船が港にないので「船は出航したんだな」と知る。あることを主張した後に身だしなみが乱れていたのに気づき、その後あることを主張する際には常に身だしなみに気をつける。誰かの話を聴いて事情を察する。どれも刺激と強化の先後性の問題ではないことがお分かりでしょう。つまり、すべての事象をオペラントと報酬で理解しようとすること自体に限界がある。

 

 報酬や罰が与えられた後に条件刺激が与えられるタイプの条件付けのことを「痕跡条件付け」と言い、一般に成立しない事象だと考えられています。そうすると先行した報酬や罰の後に呈示された条件刺激を「それには何か報酬や罰にとっての意味はあるのだろうか(たとえば告白された好きな異性の何でもない仕草が(それが自分への愛情のサインだったのだろうかと)気にかかる)」と訝ることはできない相談になります。

 

 しかし、よく考える読者は次のことに気付くでしょう。関係性の覚識を持ちうる報酬後の自発行動(オペラント)については、次のようなことがあり得ることを。すなわち他個体の報酬とオペラントを観察する。後に自分に特定のオペラント状況になったとき、そう言えば的にある報酬とあるオペラントの関係に気付く、そしてオペラントを行う(例:パチンコ、自動車の運転等…これらは、刺激-報酬と言う文脈でも理解できれば、報酬-刺激と言う文脈でも理解できるのである)。この問題では重大な問題も提起される。つまり、この個体はそのオペラント-報酬関係を「自分事」と見なければこの学習は成立しないのか、あるいはその事象関係を単に一般論として認識するのか。また、ソーンダイクが言っているようにこのような学習が機械的に成り立ちうるものなのか、ひとつひとつステップワイズに学習が進捗するのか、言い換えればそのような学習はどのくらいの深度で起きるのか。そのような認識と言うもの自体、ただの事象の羅列を見ていただけなのに、なぜそれらの関係性に気づけるのか、その認知的基礎は那辺にあるのか。注意機制がはたらくときとはたらかないときがあるが、その差は何によるのか。いずれにせよ、関係性の覚識が事後に認知されるので、この学習は一種の「痕跡条件付け」になっている。

 

 しかし、上に述べましたように現実には人間では普通に見られる学習です。そもそも学習心理学における「中性刺激」と言うものが本当に「中性刺激」と言い切れるのかどうかも疑問で、実は必ず人間を含めた動物たちには環境の一々について生態学的意味があって、もしかしたらラットでも「餌を食べたら天井灯が点き、明るさと言うアメニティが得られるので餌を食べる」と言う学習があり得ないと断言はできません。「中性刺激」が「退屈な刺激」か「魅力的な刺激」かはその有機体しか知り得ぬことです。そんなわけで、「報酬的ないし罰的関係性の理解」さえあれば、どんな条件付けでも成立し得るのです。もしこの手の学習が成立しないと言うことであれば、そのような無数の要素からなる「学校の授業」などの意味伝聞的学習は学習心理学上無意味だと言うお話になってしまいます(そう言う意味からではありませんが、僕は9割の学校の授業は大方のひととは無縁の与太話だと思っています)。  

 

 要するに、我々はそれが強化子か罰子かは任意の刺激による行動の増減で推察していますが、たとえば適度な刺激を有機体が求めているのであれば、行動の増減が強化子によるものか罰子によるものかは断言できないと思うのです。たとえば空腹な時のご馳走と満腹な時のご馳走は、強化子にもなれば罰子にもなり得ます。その上常に学習は一定の振れ幅で更新され続けてゆきます。心理状態と言うものは、常に揺れ動いています。この辺の事情からプレマックの原理とか、アリソンとティンバーレイクの反応制限説とかが出てきたわけですが、ここでの筆者の関心事ではないので、割愛します(要点だけを言うと、ある行為を他のある行為に枠付けてしか理解できないことが行動主義の根本的欠陥なのである…ワトソンは行動は観察の前に一意だと言うが、実はそれも違っていて、通常我々は「観察事実」が我々の推察なのか被験体の主観的事実なのかの区別を特につけているわけでもない…つまり、本当に客観的なことは「観察事実としての行動」を以てしても決まらない…行動から意味を抜き去っても、それは行動にすらならない…「たぶん、…だろう」…これは、どれだけ観察の「精度」を上げても振り払うことのできないアポリアなのである…この問題の本質は、「意味の効能の推定」と「事態の推定の不可抗力感」の2面から考察でき、これらにダブルチェックが入っている限りでその意味は「生きている」のである…したがって我々が事態を正確に伝えたければ、ありふれた表現になるが、事態の推察性の正確を期すばかりではなく、意味の正確性に気を付けること、そこまでが我々のコミュニケーションの正確性の限界だと言うことになる…しかし、「どこまで詰めればそれは真実なのか」は厳密性の問題にはなり得ても、何がそれを保証するのかは明らかにはできない…ただ言えることは客観性と言うのは「それしかあり得ない主観性」のことだと言うだけだ…我々は一般問題として、この問題の本質はその真実性にあるのではなく、コミュニケーション維持性にあるとみている…つまり、意味に困らないようにコミュニケーションが存立するのではなくて、コミュニケーションに困らないように意味は存立するのだとみている)。  

 

 他にも我々にはこう言うことはあるのではないでしょうか。「俺がさっき話したことは覚えておきな」と言われて我々がそれを覚えておくことがあり得ることを。あるいは「○○でないと気が済まない」と言うことが有り得ることを。パソコンの実用よりも設定に熱心になるように「手段の目的化」が有り得ることを。またあるいは、「あ、あれそう言う意味だったの」と言うような「言われて気付く(いわば「振り返り学習」)」ことがあることを。「きっかけと気づき」の前後関係がどうあろうと、学習における「気づき」は人間の場合いつでも任意の時点です。これらが「報酬と罰」による学習心理学的説明でできるとでも言うのでしょうか。

 

 たとえば、鳥さんの育児行動を考えてみましょう。鳥さんの育児行動、たとえば餌を与えるとかお尻を舐めるとか、こう言った行動が単に「報酬と罰」で説明できるでしょうか。僕は無理だと思います。なぜなら、鳥さんの育児行動が世代を超えて受け継がれて行くのは、その行動の意図なり意味なりが雛鳥たちに伝わることによってではないでしょうか。親鳥に対する雛の親しみの感情も、そうでないと生じないでしょう。単に「餌」と言う強化子、「尻を舐められる」と言う強化子のみによって雛鳥たちはそれらの行動を学習するでしょうか。情愛を感じるでしょうか。それは無理でしょう。雛鳥たちが親鳥から学ぶのは「報酬」でも「罰」でもなく、「気遣い」なのではないでしょうか。 

 

 で、なんで我々の学校の授業が大方覚わらないのかと言うと、「自我関与しているか否か」よりむしろ「その気づきは主観的評価を伴っているか否か」、すなわち「欲求があっての理解か否か」の問題だと思うのです。 人間は「境遇の動物」であり、「きっかけと気づきの動物」です。

 

 要するに、「行動主義」は「意識なき心理学(Psychologie ohne Bewusstsein)」だから人間の学習が「気付いたときに成り立つ」と言う至極当然の常識さえ説明できないと思うのです(無論、無意識的学習もあることは否定しません)。

 

 言いたいことはこういうことです。これまでの学習心理学は条件付けだのなんだのと言う偏ったパラダイムを追いかけるのではなく、「動機付け」と「行為」と言う観点から有機体の学習活動を考えていかなくてはならないでしょう、と言うことです。