出勤したミキは控え室で携帯端末を眺めながら、タカヨシに今夜遅くに連絡しようか、明日の朝に連絡しようかと迷っていると控え室に入って来た店長が、気持ちの悪い笑みを浮かべて「アケビちゃん御指名が入りましたよ」とミキの源氏名を呼んだ。
わたしを指名するなんて、きっと佐藤さんだろう。
ミキは自分のどこを佐藤が気に入っているのか甚だ疑問だったし、この様な店には似合わない雰囲気にも違和感を感じていた。
高給の仕事の斡旋話もどこか胡散臭く思え、その為か指名が入ってもそれ程嬉しさを感じることはなかった。
そもそもこの仕事も仕方なくしていることだ。
ここにいるキャスト全員がそうなんだろうとも思った。
「早くしてよ、アケビちゃん」蝶ネクタイを着けたダルマみたいな店長がせっついた。
気にしてるふうを装うために控え室に置かれた鏡に向かって髪を整える仕草と全身を眺めたミキは、溜息を堪えて明るい顔を作ろうとしたが、上手く笑えない自分に落胆した。
あの自信に満ち満ちていた過去は何だったんだろう。
何も知らなかった、あの頃が懐かしくもあり悲しくもあった。
物想いに耽るミキに再度、店長から催促の声がかかった。
薄暗い照明の店内は十程のブース席があった。
席は半分程埋まっており、様々な年齢層の男性客がキャストと談笑している。
一人で複数のキャストを侍らせている客もいれば、複数の客にキャストが一人の席もあった。
ミキは黒服のボーイに中程にある扇形で六人程が座る事のできるソファー式のブース席へ案内された。
席にはミキが思ったとおり佐藤がいたが、今日はその他に若い屈強そうな男が二名、佐藤を中央にして席の端と端に座っていた。
佐藤は茶色のスーツに灰色のバンドカラーシャツを着て、トレードマークの柿渋色のハンチング帽を被っている。
連れの男二人は黒っぽいスーツに白いワイシャツと、其々赤と白のストライプ、青と白のストライプが斜めに入ったネクタイをしていた。
二人とも髪を短く刈り込み清潔感のあるビジネスマンといった感じだが、太い頸にはワイシャツは窮屈そうに見え、スーツも軀に張り付いているようだった。
卓上にはバ・アルマニャックのオール・ダージュのボトルとそれが注がれたブランデーグラスが三つ置いてある。
この酒は佐藤のリクエストで出しているものであり、他の客で注文する人はまずいなかった。
法外な値段となるからだ。
佐藤は金離れが良く、店にとっては上客でありキャストにとっては所謂太い客であった。
スタッフにも気前良くチップを弾むし態度も常に紳士的であったから人気もあった。
佐藤が客として来るからミキは、この店で働いていけるとも言えた。
そうでなければとっくに解雇されていただろう。
上手く話も出来ず、面白いことを言える訳でもなく、相槌さえタイミングの悪いミキを指名する客は、ほとんどいなかったからだ。
何より不思議なのは、もっと高級で知的なホステスの在籍するクラブや店が幾らでもあるにも拘わらず、この店へ来ることだった。
「いらっしゃいませ。御来店ありがとうございます」ミキは満面の笑みと言えるかは分からない表情で軽く頭を下げた。
「ちょっと久しぶりかな?」佐藤が右手を挙げて笑顔で挨拶をした。
ミキが現れると佐藤の左側の男が立ち上がり、彼女へ着席を促した。
ミキが佐藤の左隣に座ると佐藤がボーイに声をかけた。
「君、シャンパーニュを。良いものを頼むよ」
「ありがとうございます」ボーイは頭を下げると奥へ戻った。
わざわざ売れるかどうかわからない在庫をこの店が抱えるはずがない、高い酒を近くの専門店に今から仕入れに行くのだ。
そうミキが思っていると佐藤が話しかけてきた。
「今日は商談が一件上手く行きそうなんで、前祝いに部下達を連れて来たんだよ」佐藤は両側の男達を掌を上に向けて指し示した。
「そうなんですか。それは良かったですね」ミキの返事は辛うじて感情が籠った程度のものだった。
佐藤は今回の商談がかなりの大きなもので、人生を賭けてもいい程のものだと大袈裟な話をし始めた。
ミキは単調な相槌を打ちながら佐藤の部下達を観察していた。
饒舌な佐藤とは正反対に、寡黙で表情も変えずに時々頷く二人の姿は少し異様にも感じたが、社長の同伴に緊張しているのかもしれない。
兎も角これで今週の最低限のノルマは達成できそうだとミキは少し安心していた。
佐藤の一人語りが続いて、時折二人の部下にも笑みが浮かび始めた頃、ボーイがシャンパンクーラーにいれた紫色のボトルをシャンパングラスと共に持って来た。
「マルゲ・ペール・エ・フィスのサピエンスでございます。よろしいでしょうか?」ボーイは断られることはないと知っているが訊ねた。
「それで構わんよ、わたしが注ごう」
卓上に置かれたシャンパンクーラーからボトルを取り上げると、佐藤はシャンパンを注ぎ始めた。
ミキが注がれたグラスを連れの男たちにそれぞれ手渡していた時、三つ目のグラスにシャンパンと同時に佐藤は手から錠剤を落とし込んだ。
そのグラスをミキの前に滑らせると、佐藤はシャンパンをミキへ手渡しグラスを持つと「注いでもらおうかな」と言った。
ミキは少し緊張気味に佐藤のグラスへシャンパンを注ぐと、佐藤がグラスを持ち「乾杯しよう」と言い全員がグラスを持ち上げ乾杯をした。
しばらく佐藤の話しに二人の部下が応え、時々ミキが気のない相槌を打つ時間が過ぎた。
ミキは退屈であったがシャンパンが思いの外美味しく、プライベートでも飲んでみたいなとぼんやり考えていた。
佐藤は饒舌に語りながら右手を挙げてボーイを手招きした。
チップに釣られるようにボーイが直ぐにやって来る。
佐藤はボーイのジレのポケットに1万円紙幣を差し込むと何やら囁いた。
ボーイが頭を下げて離れて間もなく、店長が揉み手でブース席へ現れた。
「これから食事へ出かけたいのだが、彼女を連れて行ってもかまわないかね?」佐藤はそう言うと店長のスーツの胸ポケットに札束を捩じ込んだ。
「はい、勿論結構でございます。アケビちゃん用意をなさい」薄笑いを浮かべて店長はミキを促した。
ミキはまったく気乗りしなかったが、このまま店にいても仕方ないと思い従うことにした。
着替えを済ませたミキが店内に戻ると佐藤の部下が待っていた。
促されるままに店を出ると黒いセダンタイプの車が店の前に止まっており、後部座席で佐藤が手を上げてミキを手招きした。
運転席に座るショートヘアの女性は30歳前後の年齢だろうか、ミキの全く知らない顔であった。
佐藤の隣へミキが乗り込むと部下は助手席へ着き、もう一人の部下は後に止まっていた別の車に乗り込んだ。
「さて何を食べにいこうかな?」佐藤が楽し気にミキに尋ねた。
「わたしは何でもかまいません」ミキは本心からどうでもいいと思っていた。
「では私が決めよう。君、いつもの所へ頼むよ」佐藤は運転席の女性に声をかけると上機嫌に鼻唄を歌い始めた。
その鼻唄はどこか懐かしいような旋律の曲調で、ミキは聴き耳を立てながら睡魔に襲われていた。
「この曲はね、わたしの故郷の子守唄なんだよ」佐藤の言葉をぼんやりと耳にしながらミキは眠りへ落ちていった。
続く
