『二重被爆~語り部 山口彊の遺言』公式ブログ -2ページ目

私の仕事(1716)また始めますか?

このブログも休みがちでしたが、また始めますか?
見てくれている人が限り限り・・。

   稲塚秀孝

私の仕事(1712)雪の新千歳空港

先程まで雪に振り込められていた新千歳空港。

ラウンジは一杯の人たち。

いつ飛ぶのか?滑走路の除雪待ちとなっている。

既に予定便は2時間が遅れている。


でもゆっくりPCが使えるので、ここ3日間のメールチェックと

送信がほぼ済んでホッとしている。


今回はロケハンと打合せで、ロケ本番は2月6日~8日となって

いる。さまざまなアクシデントを想定した準備が必要と思う。

こんなに雪が降るとは驚きである。


何とか今日中に帰京しないと、困ったことになる。

メールで各所と連絡を取りながら、実は気が気ではない。


1月20日  稲塚秀孝

私の仕事(1711)被爆70年から始まる・・

長崎新聞社ロビーでは、故 本島等氏の写真・資料展が

開催されていた。

右翼の銃弾を浴びた瞬間(長崎市役所前)を捉えたものだ。

左胸を撃たれてうずくまる姿がリアルである。


「天皇陛下にも戦争責任がある」と至極当然の発言に対し、

凶弾を浴びせられたのだ。

日本の歴史の中で、歪められたことは枚挙にいとまがない。

その中で、昭和史のこの一ページには、みな戦後70年に

見極めないといけない事実だと思う。


今年は被爆70年。

2005年に初めて広島と長崎で二度被爆した「二重被爆」者を

取材してから、10年が経った。私が父と思う山口彊さんが

2010年に亡くなって、5年が経つ。

今年は今一度、二重被爆の事実に触れなくてはいけないと

思うばかりである。

どのように探すべきか?

どのように取材して行くか?

私の「ライフワーク」を極める取材を始めて行かなくては

いけない、と思うばかりである。


昨日から零下7度の苫小牧に来ている。


1月19日  稲塚秀孝

私の仕事(1710)ナガサキに来た

昨日から1泊2日だが、長崎に来ている。

今年11月開催予定の「長崎国際平和映画フォーラム2015」の内容

をどうするか?

これから春にかけて、固めて行くことになる。


一昨年朗読劇「ヒロシマ ナガサキ」

昨年は「被爆と被曝」を上演することができた。

さらに高校生による「ヒロシマ ナガサキ」もあった。

何事も3年目は難しい。

新しいことにチャレンジしたいが、そうゆかないこともある。


だからこそエネルギーが必要で、ただし被爆70年の節目の年だからこそ

の「起爆剤」があるべきだと思っている。


今は「NORIN TEN」に、加えて数本の製作プロジェクトが稼働中。

だが忙しいことは、いつものことで、いかに整理して的確な手を

打ってゆけるかにかかっている。


初めて、故 山口彊さんに会いに来たのは2005年夏だった。

今年は10年。山口さんとの出会いが、記録映画「二重被爆」に

結実し、テレビ番組にもなった。


また次の10年に向けて、始動したいと思っている。


1月17日  稲塚秀孝

私の仕事(1709)フクシマ取材③

ひときわ目立つ新成人がいた。

男性は赤、女性は青の衣装を身につけ、子供の手を引いている。

横におられる親御さんは、女の子を抱えている。


上の子は3歳と聞いた。

Kさんご夫婦は、16歳の時に身ごもっている。ということは、2011年

3月11日を経過して、お子さんが生まれてきたことになる。

この子たちと親の二人は、これから南相馬市で生き抜くのだと聞いた。

実に頼もしい。

同行する浜口カメラマンは、二人を見つけ、すかさずカメラに収めていた。

そしてカメラを向けた私は、ご挨拶をし、改めて取材に訪れることを約束

したのである。


今の南相馬市は、震災地の「縮図」となっている。

元々住んでいた家族は、妻子を避難させて4年。妻子を呼び寄せるよりも、

働き手の夫が妻子のもとに転居する方が圧倒的に多いと聞いた。

また長く離れて暮らした故に、夫婦が別れてしまったケースも頻繁に

あるらしい。

一方周りの町や村から引っ越してきた人たちは、東京電力からの補償金を

基に、商売を始め、そこには同じ村の人たちが集い、繁盛している姿が

ある。

不謹慎な言い方かも知れないが、これではまるで「ベルリン」ではなかろうか?

ニューヨークに、チャイナタウンやリトルイタリーなどがあるように、この街

も「分断統治」される運命なのだろうか?


大震災と原発事故に見舞われて、ついに一度も避難しなかった方の言葉は

重い。

「いったいこの街はどこに向かうの?いずれ無くなってゆくの?」


1月14日  稲塚秀孝