J-POP呪術大戦:その8

 

「歌は世につれ世は歌につれ」。大和の言葉で奏でる歌は呪術である。よって、J-POPも呪術となる。そこには歌の呪術師、言葉と音の魔術師たちが存在する。

※本連載に登場する人物名は本物ですが、書かれている内容は筆者の妄想です(笑)。ファンの方は真剣に取り合わないでください。

 

 松任谷由実「流線形'80」

 

 

 

  「その6」では中島みゆきの「時代」を取り上げたが、今回は中島みゆきの終生のライバルと言われるユーミン。それもアルバムである。なんでアルバムなのかといえば、このアルバムは予言だったからである。「歌は世につれ世は歌につれ」というが、実際のところは「歌は世につれる」が「世は歌につれる」ことはない。要は流行歌はその時代の世相を反映するが、歌詞の内容によって時代が変わることはない。ユーミンを除いては。

 

 『流線形'80』(りゅうせんけい はちじゅう)は、松任谷由実の6枚目のオリジナルアルバムで、1978年11月5日に東芝EMIからリリースされた作品である。アルバムタイトルは「80」だが、発表されたのは1978年で、およそ1年前である。だが、実際に曲作りをしていたのはそれより前だから、2年前までにはおおよその曲が書かれていたということだ。

 

 

 なんで「世はユーミンにつれた」のかといえば、まずはアルバムのタイトル「流線形」である。80年代になるまで、日本の車はダサいものが多かった。が、このアルバム発売以降、日本にも流線形のスポーツカーが次々に登場した。それまでの流線形の車は日産の「フェアレディZ]と「トヨタ2000GT」くらいで、「トヨタ2000GT」の場合は1970年の生産終了まで、たった337台しか生産されなかったから、時代を飾る車とはいい難い。

 

 時代はオシャレな若者たちがメディアの影響によって登場する前夜。70年代半ばには「スーパーカーブーム」はあったが、それはランボルギーニとフェラーリを両巨塔とするイタリアのスポーツカーで、日本のスポーツカーなんぞ全く歯がたたない相手だった。そうした中でも海外に立ち向かうためのスポーツカーが作られ始め、80年代の後半にはHONDAのF1参戦によって「速くてカッコイイ流線形の車」が市場に投入されていくことになる。その意味でもユーミンは予言者だったのである。

 

 だが、『流線形'80』の威力はそこだけにとどまらない。キャッチコピーは「まだ見ぬストリームライン(流線形)がユーミン・シティを駆けて行く」であったが、まさにその後の80年代から90年代前半に至るユーミンが作り出す「オシャレワールド」の要素が全て詰まったアルバムだったからだ。

 

  1.「ロッヂで待つクリスマス -Christmas At the Lodge-」

  2.「埠頭を渡る風 -The Wind-」

  3.「真冬のサーファー -Surfers In the Winter-」

  4.「静かなまぼろし -Silent Illusion-」

  5.「魔法のくすり -Magical Remedy-」

  6.「キャサリン -Catherine-」

  7.「Corvett 1954」3:578.「入江の午後3時 -3pm At a Pier-」

  9.「かんらん車 -Ferris Wheel-」

10.「12階のこいびと -Lover On the 12th Floor-」

 

 

 バブル期を彩った映画を作った会社といえばホイチョイ・プロダクションで、『私をスキーに連れてって』 (1987年:スキー、アマチュア無線)、『彼女が水着にきがえたら』 (1989年:スキューバダイビング)、『波の数だけ抱きしめて』 (1991年:ミニFM局)のいわゆる「ホイチョイ三部作」はいずれも大ヒットし、採り上げたテーマはブームになった。筆者が働いていた会社は、2作目、3作目の制作にも協力したからよく覚えている。

 

 「ロッヂで待つクリスマス」は『私をスキーに連れてって』ではインストゥルメンタルバージョンが使われている。アルバムは違うが、主題歌は「サーフ天国、スキー天国」で、挿入歌は「恋人がサンタクロース」「ロッヂで待つクリスマス」「A HAPPY NEW YEAR」「BLIZZARD」で、制作協力はプリンスホテルだ。ユーミンの曲ありの映画だった。

 

「真冬のサーファー」なんて、当時はまだサーフィンブーム前である。真冬にサーフィンをする好きな人を浜辺から見守る女の子の気持ちを歌っているが、敢えて夏の設定でないのが凄い。この曲は『波の数だけ抱きしめて』挿入歌である。

「入江の午後3時」は11枚目のシングルだが、この入江とは三浦半島の油壺のことを指していると言われ、シングルのジャケットは葉山マリーナで撮影されている。後のユーミンの聖地で、ここで毎年チケットが取れないコンサートを開催してきた。「かんらん車」は寒い冬に独りで閉園前の観覧車に乗るという、失恋ソングで、今はなき二子玉川園の観覧車がモデルとされているが、80年代以降はこれらの場所=オシャレとされた場所である。

 そして、「埠頭を渡る風」だ。ここでの「埠頭」とは晴海埠頭のことで、後にここから船に乗って東京湾クルーズが楽しめるようになる。シングルのジャケットでは「埠頭を渡る風。」と表記。逗子マリーナ公演ではラストに毎回歌われ、打ち上げ花火は風物詩となった。

 

 

 

 なぜ、ユーミンは日本のポップソングの女王として君臨し、予言的な歌の数々を残してきたのか。それはユーミンのDNAの中に宿る忌部氏と秦氏の血がそうさせるのである。ユーミンの実家は1912年に創業された八王子の呉服店「荒井呉服店」である。1912年とは明治45年で大正元年である。呉服を作るのは秦氏である。だが、ユーミンの旧姓「荒井由実」の荒井姓というのは、全て東国の発祥なのである。代表的な家紋は「鷹の羽」「四つ目結」「五三桐」「三つ柏」「木瓜」である。

 

 ①桓武平氏千葉国分氏流 岩代国安達郡荒居より起こる。元国分氏、高倉近江の家老国分玄蕃常氏の弟・新兵衛常治が荒井氏を称す。 

 ②会津の荒井氏 

 ③田村の荒井氏 

 ④那須の荒井氏 

 ⑤上州の荒井氏 清和源氏新田氏流。上野国新田郡新井より起こる。同国碓氷郡にも新井村あり。新田系図に新田基氏の2男覚義、この地にありて新井二郎、あるいは荒井禅師と称すといい、あるいは新田義房の二男を新井禅師覚義とす。 

 ⑥武蔵の荒井氏

 

 どれも東国である。東国に麻と絹の織物を伝えたのは忌部氏である。その忌部氏の傘下にいた氏族がもともとの秦氏である。つまり、ユーミンの血筋は元々は忌部だったが、秦氏との婚姻関係により原始キリスト教となった忌部氏と秦氏の末裔なのである。ユーミンはオシャレワールドが表に立つが、コアなユーミンのファンは昔からユーミンの暗いバラードを好む人たちが多い。そしてユーミンの歌には「死」にまつわる曲もいろいろある。

 

 1988年に筆者が当時の売れているアーティストのファン特性の調査を行った際、驚いたのは、中島みゆきとユーミンのコアファン層は共通していたことだった。当時でも「え〜っ!」という感じだったが、実態としてはそうだったのである。時代のトレンドの半歩先を歩きながらヒットを飛ばす松任谷由実と、己の道を行く中島みゆきを「月と太陽」「光と影」とする対比は多く見られ、ユーミンは「恋愛歌の女王」、中島みゆきは「失恋歌の女王」「女の情念を歌わせたら日本一」などとよく形容されたが、本質は同じなのである。当人同士は、そうした周囲の対比をさほど気にもかけていない様子で、同年代で交友もあり、互いに認め合っている関係である。

 



 1984年、中島のコンサートツアー「明日を撃て!」のパンフレットに寄稿したユーミンは、
「私がせっかく乾かした洗濯物を、またじとーっとしめらせてしまう、こぬか雨のよう」と中島の音楽を評し、「でも、そうやってこれからも一緒に、日本の布地に風合いを出していきましょう」と締めくくっている。中島みゆきは自身の著書『愛が好きです』の中で松任谷のことを「尊敬している」と語っている。


 物部氏と秦氏の歌姫たちは、これからも日本の音楽を支えてくれるに違いない。