「大和と日本」の謎:その40

 

  前回、北海道から沖縄まで、日本中を原始キリスト教の国にするため、「壇ノ浦の合戦」なる戦いがあったことにした、と書いた。八咫烏が義経を育て東北から北海道へと送りこんだことは既に連載に記したが、壇ノ浦の合戦の本当の意味について書いておかねばならない。それは、なぜ表向きは平氏を滅ぼしたことにして、源氏に「鎌倉幕府」を作らせたのか、ということである。ここにも大和と日本の戦いが隠されているのだ。

 

『先代旧事本紀』と「天三降命」

 

 この謎解きをする前に、物部氏の歴史書とされる『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、さきのよのふることのふみ)に書かれた興味深い記述に付いて書く必要がある。『先代旧事本紀』は、全10巻からなる神道における神典である。『旧事紀』(くじき)あるいは『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいい、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。著者は不明とされるが、「天孫本紀」に尾張氏と物部氏の系譜を詳しく記述し、物部氏に関わる事柄を多く載せるところから、著者は物部氏の人物であるという説もある。なにせ尾張氏は海部氏と同族である。その尾張氏の系譜というのは結局は海部氏に行き着く。物部氏の歴史書という意味はここにある。

 編纂者の有力な候補としては、平安時代初期の明法博士である「興原敏久」(おきはらのみにく)が挙げられている。これは江戸時代の国学者・御巫清直(みかんなぎ きよなお)の説であり、興原敏久は元の名を
「物部興久物」という部氏系の人物であり、彼の活躍の時期は『先代旧事本紀』の成立期と重なっているからとしている。また、編纂者については、興原敏久説の他に、石上神宮の神官説、石上宅嗣説、矢田部公望説などがある。まぁ、どれも物部氏である。


 しかし、『先代旧事本紀』は変なのである。物部氏を滅ぼした敵方の蘇我馬子などによる序文があるのだ。大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされるのだが、江戸時代の国学者、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされている。この国で「偽書」の烙印を押された書は「本物」という意味である。そして、なぜ物部氏の書に蘇我馬子らによる序文があるという意味は、この書の著者が聖徳太子だったということである。なにせこの書は「さきのよのふることのふみ」であり、預言書なのだということが分かる。要は『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』は3つで1つの預言書なのである。

 

 

『先代旧事本紀』

 

 この『先代旧事本紀』には「天三降命」という神が登場する。「あめのみくだりのみこと」「あめのみおりのみこと」と呼ばれる神で、物部氏の祖神「饒速日命」(ニギハヤヒ)が天降った折りに、「高皇産霊尊」(タカミムスビ)から「防衛」(ふせぎまもり)として随伴させた三十二人の神の一柱とある。この「天三降命」は、185年頃の饒速日の東遷に従って大和国へ行ったとあるが、この神は「豊国宇佐国造」(とよくにうさのくにのみやつこ)等の先祖でもあるという。つまり、宇佐神宮の神官一族である。

  

 この話しが伝えていることはこうである。秦の始皇帝の命によって東海に浮かぶ「三神山」に不老不死の仙薬を求めて旅立った同じ「嬴」(えい)の姓をもつ「徐福」は、二度目に渡来した九州北部に「物部王国」を作った。そこにいた一団は、宇佐に行った者たちと畿内へと行った者たちに分かれた。畿内へと向かった物部氏を率いた王は「饒速日命」で、彼らは大和の地に王国を築いた。それが「魏志倭人伝」が伝える「邪馬台国」(ヤマト)である。

 

 古代には自分たち民族の名前を地名としたことを考えれば、物部とは「ヤマト族」だったということである。そのヤマト族は、一度目の渡来の際に丹後に社を作って王族となった「海部氏」と合流、西は北部九州から中国地方、丹後から北陸、畿内をぐるっと囲み、伊勢から熊野、東は愛知県にまで広がる一帯を征服した。これが「大倭国(大邪馬台国)」であった。だが、ヤマト族の物部氏は、3世紀に神武=応神天皇とともに渡来した秦氏によって、古神道のユダヤ教徒から神道の原始キリスト教徒へと改宗させられてしまう。

 

 正統性を表す言葉として「錦の御旗」(にしきのみはた)という言葉が使われる。要は「大義の有無」ということだ。戦争になったとき、両陣営にはそれぞれ正義がある。どちらが正しく、どちらが間違っているという話ではない。戦う正統性を担保するのが大義名分であり、それを象徴するのが日本では「錦の御旗」である。明治維新を描くドラマには必ず維新軍がこの「錦の御旗」を掲げるシーンが登場する。だが、「旗」とはハタであり、「秦氏」のハタなのである。日本の国旗は「日の丸」で、白地に赤い円が描かれる。日の丸は太陽のことで天照大神の象徴。三種の神器でいえば八咫鏡である。

 

 「紅白」というのは、源氏と平家でもある。源平の合戦では源氏が白、平家が紅の旗を掲げて戦ったという歴史から、紅白を並べることでいさかいもなく平和に過ごせるのだとされ、おめでたい時に使われるようになったという説がある。そして 紅が出生の意、白が死を表し、人の一生をあらわすという話しもある。だが、これは「陰陽」ということであり、源氏と平氏は同じ氏族で陰と陽を成すという意味なのでもある。全ては天照大神をイエス・キリストと位置づけた原始キリスト教徒である秦氏がカッバーラをもとに呪術的に仕掛けたもの。国旗を掲げる旗竿には、イエス・キリストの聖十字架である忌柱と天御柱の意味が込められており、金玉には大和の地に降り立ったイエス・キリストの存在が象徴的に込められている。

 

 新天皇が即位するための「大嘗祭」が初めて行われたときから、東西の日本列島の支配権は天皇に神授された。イエス・キリストが天照大神として降臨、神武=崇神=応神天皇を大倭国(ヤマト)の大王として認めたとき、大邪馬台国のみならず東日本の狗奴国の支配は約束された。だが、邪馬台国に女王・卑弥呼が推戴されたことに反発、それに従わなかった物部氏は東国へと移住、「外物部氏」として富士山麓を拠点に「富士王朝」を作り、不二阿祖山太神宮を本拠地とした。

 

 外物部氏はアイヌと合流し、邪馬台国と戦い、その後には大和朝廷とも戦った。だが、反逆を続ける外物部氏の都を滅ぼすため、大和朝廷の呪術師集団は「契約の聖櫃アーク」を持ち出す。創造神ヤハウェが臨在、富士山を噴火させ、頑なな民である外物部氏たちに怒りが注がれた。富士王朝は粉砕され弱体化したが、インカ系縄文人とアイヌ、蝦夷の勢力は揺るがず、彼らは拠点を富士山麓から関東へ移す。創造神ヤハウェを祀る神殿は鹿島神宮と香取神宮に置かれた。

 

鹿島神宮

 

 『延喜式』に記された「神宮」は伊勢神宮を除けば、この2つしかない。ここは、もともと外物部氏の拠点であった。祭神である「建御雷神」(たけみかづち)と「経津主神」(ふつぬし)は、本来、物部氏の神である。特に経津主神の「フツ」とは物部氏の宗家が祀る石上神社の主祭神「布都御魂」(フツノミタマ)のこと。つまり、鹿島神宮と香取神宮の両神宮は、ともに外物部氏が祀る神殿を大和朝廷が征服、それを同じ物部氏に祀らせたのである。ここが非常に混乱するポイントだ。物部氏の社だと思っていたら外物部氏の社だったということだ。まぁ結局は物部氏ではあるのだが。

 

 秦氏と物部氏の連合軍が支配したこの地の名前は、「創造神ヤハウェ」を示す名称から「イエス・キリスト」を示す名称に変えさせられた。それが現在の「いばらぎ(茨城県)」であり、その本質はイエス・キリストが頭に被せられた「いばらの冠」を示す「荊の木」である。ここまでは半分おさらいだが、『先代旧事本紀』によれば、畿内から愛知、熊野などを併合した海部氏・物部氏が支配した地域には、それぞれのクニの中心地を「豊田」(とよた)としている。それを伝えているのが、山辺郡豊田城(現奈良県天理市)を本拠とした国人で、天三降命の後裔と伝えられている「豊田氏」(とよだうじ)の存在である。

 

◆謎の一族「豊田氏」

 

 「改訂新版世界大百科事典」には、この「豊田氏」を以下のように記している。

 

 大和国山辺郡豊田(現,奈良県天理市豊田町)の中世土豪で、豊田は石上(いそのかみ)神宮を祭祀する布留(ふる)郷の一村で,大和平野の東縁部のほぼ中央にある。豊田氏は南北朝内乱期から台頭し,豊田中坊が興福寺衆徒(僧兵)に起用され,豊田城に拠った。1430年(永享2)に隣接の井戸氏と戦ったが,筒井氏の援助をもとめたため,反筒井氏の越智氏ら南大和衆が井戸氏を助けて決起,長期の大和南北合戦となり,応仁・文明の乱に移行する。当時,豊田頼英(らいえい)が付近の東寺領河原城荘(現,天理市の中心街地)の代官職に任ぜられたりしたが,布留郷の郷民の規制が豊田氏の武士化発展を制約したため,大小名化には至らなかった。戦国末期,筒井順慶に属して松永久秀と角逐したが,筒井順慶の大和国支配時代に先んじて衰退したと思われる」
 

「豊田城」があったとされる地域(現在の天理市)

 

 豊田は物部氏の総社「石上神宮」を祭祀する「布留郷」の村とある。つまり、豊田氏は石上神宮の祭祀に関わっていた一族ということになる。さらにこの「豊田」という場所はここ大和以外にも存在する。その代表的な地が、愛知県の豊田、そして外物部氏たちが新富士王朝を作った茨城なのである。この豊田という一族は、物部氏だった外物部氏なのだろうか。なにせ愛知県の豊田は「トヨタ自動車」の本拠地である。日本のGDPの20%は確実にトヨタ自動車が生み出している日本最大の企業である。単なる偶然では済まされない。

 

 さらに秦氏と物部氏が制圧した土地にも地名として残っているということであれば、そこには豊田の一族が移り住んだということを意味しているはずである。いったい豊田氏とはどういう一族なのだろうか。豊田氏に関する系図はいくつかあるのだが、真実を伝えるものと、人名やその注記に伝承の部分が盛込まれているものなどがある。それらの系図のうち「尊卑分脉」は南北朝時代に満季・実熙ら洞院家の人びとにより編纂されたものであるが、これには豊田氏は「高望王」=「平高望」(たいらのたかもち)の末裔となっている。平氏なのか?

 

 

「尊卑分脉」における豊田氏の系図

 

 高望王とは桓武天皇の孫(もしくは曾孫)にあたり、高望王流桓武平氏の祖である。さらにその孫は「平将門」である!つまり、豊田氏とは「平氏」ということになる。物部氏が平氏なのか?桓武天皇の子孫ならば、秦氏のはずである。既に頭が混乱し始めた。

 

 「豊田為幹」までしか記されていない。その他の系図は、「尊卑分脉」よりは後に成立したものであるが、「常陸大掾系図」には為幹―繁幹―政幹―幹重と記され、一般に豊田氏の祖とされる政幹のところには「石毛荒四郎」「荒人神トナル」「号赤白将軍」と注記されている。「???」である。「赤白将軍」とはいったい何を意味しているのだろうか。紅白といえば「平氏と源氏」である。これは平氏と源氏の元の氏族だと言っているのだろうか。

 

「常陸大掾系図」における豊田氏の系図

 

 さらに謎なのは「荒人神トナル」である。「荒人神=アラヒトガミ」である。つまり「現人神」だ。現人神とはイエス・キリストのことである。だが、「荒人」の一字から想像すると「荒ぶる人の神」となり、「荒ぶる御魂の神ヤハウェ」すなわち「素戔嗚尊」とも読める。別の読み方をすれば「創造神ヤハウェ」を降ろす預言者となる。なにせ「石毛荒四郎」である。「石」がついているのならば、物部氏であることは間違いないはず。だが、平氏だとなっているのだ。

 

 さらに別の「石川系図」には為幹―重幹―正幹―幹実と記されており、正(政)幹のところには「石毛荒四郎」「将軍」と注記されている。「将軍」というのは何なのか?さらに「石川」とは「石川麻呂」にも代表される物部氏の宗家である。もはや誰のことなのか、何を示しているのか混乱してきた。

 

 なお、「常陸大掾伝記」(『続群書類従』第六輯上)にも、「重幹ノ子清幹之舎弟正幹。石毛荒四郎。後号赤頭之四郎将軍。」と記されており、政幹が当時からなのか、後世のことなのかは不明であるが、「石毛荒四郎」「赤白将軍」あるいは「赤頭之四郎将軍」などと称されているのである。この「赤白」「赤頭」とは地名の赤須であるとされているが、そんな説に惑わされてはいけない。もし、この「赤頭之四郎」「赤頭の白将軍」としたら、「赤=平氏+白=源氏の血を引く将軍」という意味になる。いったい、この人物は誰のことなのか。そして豊田氏とはいったい何者なのだろうか。

 

<つづく>