「大和と日本」の謎:その39

 

 「徐福」が渡来するまでの古代日本列島の支配者は、東側がアイヌ。西側が琉球で、ともに古代アメリカ大陸から渡ってきたイスラエル民族だったが、この2つの民族は古代アメリカに住んでいた時から争いが絶えなかった。優勢だったのはアイヌのインカ系民族で、琉球のマヤ系民族を武力で圧迫していた。彼らがなぜ、古代日本列島をはじめとする太平洋の島々へと移動していったのか、その明確な理由は分からない。インカ系のアイヌの人々は口承伝承であり、また沖縄もユタによる口承伝承である。神の存在を伝え残してはいるものの、肝心な存在がいない。それは「預言者」である。

 

 古代イスラエル民族は、モーセの登場以降、常に「預言者」に導かれてきた民族である。もちろん始祖アダムからノアに至る人々も預言者であり、アブラハムもヤコブも預言者ではあるが、一族は率いたが民族を率いた存在ではない。その意味で古代アメリカに渡ったイスラエル人たちを導いたのは絶対神ヤハウェ自身だったが、それは彼らがその地に定着するまでで、その後は預言者なき民族になってしまった。よって、同じ民族の間で無益な争いを続けたことで、彼らの本隊は「約束の地」である古代日本列島へと旅立った。が、日本に渡来して以降も争いを続けることとなる。その意味では、大和と日本の戦いとは、別の意味では「琉球 vs アイヌ」の戦いでもある。

 

◆徐福と神武と沖縄

 

 「徐福」は道教の方士であり、斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身と言われる。本来の表記は「徐巿:じょふつ」とされるが、本当の姓は「嬴:えい」であり、始皇帝と同族であった。アカデミズムでは日本に渡来したというのは伝説であり、それはあくまでも虚構とされている。しかし、古代日本を作ったのは徐福である。始皇帝の命を受けて古代日本を「ヤ・ゥマト=神の民」の国として封印するため、そして「契約の聖櫃アーク」と「草薙剣」、その他「メノラー」をはじめとするユダヤの神宝を世界から隠すために渡来したのである。

 

徐福とユダヤの神宝類

 

 徐福は「道教」の方士だったが、道教とは簡単にいえば変質する前の原始ユダヤ教で、それを「古神道」として日本に根付かせるため、創造神ヤハウェの磐座を次々に作っていった。その頃はまだ、日本列島が90度傾いていた時代である。徐福が最初に訪れたのは、大陸からの玄関口となる九州の上にあった琉球であり、「神の島」と呼ばれることとなる「久高島」であった。「徐福」はまず、琉球を海上の鳥居と見立て、そこから先の日本列島全体を「聖域」とするため「結界」を張った。これが後の琉球の名前となる「沖の注連縄」の意味を込めた「沖縄」である。

 

 久高島において徐福は琉球の創世神「アマミキヨ」と呼ばれる。アマミキヨは女神として崇められるが、これは本当の姿を隠すための仕掛けであり、それは後に天照大神を女性の姿にしてしまうことも同じ仕掛けである。しかし、敢えてアマミキヨを女神としたことにも意図がある。それは琉球を仕切るのはあくまでも「神女:ノロ」だからで、神域に入れるのも「神女:ノロ」のみであった。それは神社の神官が基本的に男だけのヤマトとは反対で、ここには後のヤマト民族全体の陰陽の仕掛けがある。

 

 徐福はまず琉球民族に入婿する。入り婿というのは後の神武天皇も同じで、なぜ征服した側に入り婿したのかといえば同じ民族だからである。そうでなければ、異民族との結婚が許されなかった古代イスラエル人が、それも大王が入り婿するなどありえないからだ。そう考えると、もしかしたら、徐福は「神の島」と呼ばれる神聖な島である「久高島」のノロと婚姻関係を結んだのではないだろうか。久高島が「神の島」と呼ばれる所以は徐福が上陸し、創造神ヤハウェの磐座を作ったからだ。その意味で徐福は琉球に最初に現れた預言者であり、預言者の居ない地だったからこそ「神」として祀り上げられたといえる。

 

「久高島」に上陸した徐福=アマミキヨ

 

 「久高島」は沖縄や奄美群島で遠い海のかなたにあると信じられていた楽園「ニライカナイ」に一番近い島と言われ、「ニライカナイ」とは記紀神話に登場する「常世の国」に相当する場所だが、なぜ「久高島」が神聖な島なのかといえば、琉球の創世神「アマミキヨ」が降り立ったとされるからである。琉球の国土を創成したといわれる「アマミキヨ」は 女神で、男神「シネリキヨ」との間に3人の子をもうけ、それぞれが領主、祝女=ノロ、民のはじまりになったとされるが、それはあくまでも神話で、アマミキヨとはヤハウェを降ろした徐福のことである。「久高島」とは日本最初の聖域であり、沖縄の奥の宮なのである。

 

 徐福は久高島の後に沖縄本島で次々と聖域を作っていった。その後に「沖ノ島」を聖域とし、さらに「隠岐」に磐座を作って封印した後、「丹後」に上陸したである。ここに日本最古の社となる元伊勢・本伊勢「籠神社」の奥宮「真名井神社」を磐座として建立。宮司は代々、海部(アマベ)が務めているが、海部氏=天部氏の祖先は徐福が最初に率いてきたレビ族である。つまり、ここには徐福と琉球の神人(ノロ)の血を受け継ぐ末裔がおり、それが海部氏となったのならば、海部の王(神官一族)の血を受けた太陽神の巫女であった「卑弥呼(日巫女)」が邪馬台国の女王となった時、狗奴国のアイヌたちが、なぜ邪馬台国を何度も滅ぼそうとしたのかも理解できる。つまりインカ系縄文人のアイヌとマヤ系弥生人となった琉球の血を引く海部・物部連合は、日本列島においても同じように戦い続けたということだ。 

 

 沖縄の神話を伝えるのは「神人」(カミンチュウ)である「ノロ」であるが、ノロに伝わる伝承として「神武天皇は琉球に渡来した」というものがある。そして「神武帝が大和へ行く時、古宇利島のノロ達が旗を振り盛大な見送りをした」という話が伝わっている。この「古宇利島」(こうりじま)は、沖縄県国頭郡今帰仁村に属する島で、沖縄本島北部にある屋我地島の北に位置する。

ここ古宇利島では、今も神武天皇を送り出した神事をノロたちがひっそりと続けているという。

 

屋我地島の沖に浮かぶ「古宇利島」


 さらに沖縄の「伊平屋島」(いへやじま)には、神武天皇がここで生まれたとする伝承があるという。地元では、ここ伊平屋は数千年前から人も住みついていた古い島とし、島全域は、沖縄の最北端の地点に散在せる列島で、大昔から伊平屋島といわれていたのは、島の面積の大きさから取って伊平屋島と唱えられたと伝えている。その内、伊平屋島・野甫島の伊平屋地方二島と伊是名島・具志川島・屋那覇島・屋の下島・降神島の伊是名地方五島、両地方合せて、「伊平屋の七離れ」と呼ばれていたという。この中に「降神島:ウルガミジマ」という名が付けられた島があるのがポイントである。

 

 この「降神島」は無人島で、珊瑚礁が隆起して出来た岩礁である。「降神島」の名称は天地開闢に際して神々が最初に降り立った場所であることに由来するとされ、アカラ御嶽には日本神話の天岩戸に似た伝承が残されているのだという。なんで琉球に「天岩戸伝説」があるのだろうか。この伝承を調べてみたら、民話として以下のように書かれていた。

 

 ①昔、降神島に神様が天から降りていらっしゃって、そこからまたアラハ御獄にその神様は降りたので、世は明けた。それまで、世は暗かったが、その神様がアラハ御獄に来たので、世は明るくなった。それから、クマヤ洞窟に行って、そこでまたこもった。それでまた、世を明るくしないといけないといって、神様たちが、七人の神様が行って、願ったので、クマヤ洞窟から世が明けたという。(『いぜな島の民話』)


 ②昔からの言い伝えによれば、降神島の神様が籠もった穴と言うことで、その穴はクマヤと呼ばれている。(『伊平屋村史』)
 

 ③「降神」(うりがみ)と言って、天照大神は、あの岩に降りて、アカルイ御岳に住んでおられた。それは裸世のことである。そのアカルイ御岳の下で、平らな陸(あぎ)ギタラという石山があるが、そこに裸世の人は住んでいた。アカルイ御岳にしばらく住んで、天城(あまぐすく)に移り、さらに後地(くいじ)に渡って、今のクマヤガマという所に、天照大神は住まれるようになった。(『いぜな島の民話』)

 

「降神島:ウルガミジマ」

 

 沖縄に天照大神が降臨するというのはまだ分かるが、岩に降りて、御岳に住んだというのなら、それは創造神ヤハウェが降臨したということになる。現人神である天照大神=イエス・キリストが岩に降りてくるなんて話しは聞いたことがない。さらに御岳の中に住むというのは、神霊ということだ。さらに、この話しを伝えたのは後世の話しで、徐福の時代の話しではない。徐福は紀元前3世紀のことで、まだイエス・キリストは誕生していないからだ。とすれば、仮に神武天皇が来訪していたのなら、この神話を伝えたのは秦氏となる。

 

 だが、「伊平屋島」の伝承は神武天皇がここで生まれたという話しなのである。江戸時代の国学者・藤井貞幹は『神武天皇の母玉依姫は、海宮(あまみ)の玉依彦の娘、豊玉姫の妹で、海宮とは、琉球国の恵平也(伊平屋)島』と唱えている。そして、「神武天皇は琉球の恵平屋島(ゑへやしま)に誕生あそばされたり」という藤井説の根拠となっているのがここの「クマヤ」で、現在も国学関連の大学の研究機関や沖縄史跡研究者が調査に訪れている。この藤井貞幹は、さらに「日本発祥の地は沖縄である」という大胆な説まで唱えたことで、本居宣長と大論争にもなっている。

 

 1956年に発行された『伊平屋村誌』(新垣平八・諸見清吉)の序文には「神武天皇の御母君玉依姫は伊平屋島の人であるとの伝説がある」との記しており、「…日本徳川時代の国学者藤井貞幹は神武天皇は恵平也(いへや)島に生誕遊ばされ御母玉依姫は海宮豊玉彦の女海宮と云ふは琉球恵平也島を云ふと説かれて…」と藤井説を紹介しており、「十六、名勝旧跡」に「田名の籠穴(クマヤ)=天の岩戸」の項がある。その意味で、ここは全国に数多くある「天の岩戸伝説」の最南端の地となっているのである。

 

田名の籠穴(クマヤ)と呼ばれる洞窟

 

 「田名の籠穴」というのは、後に付けれた漢字だろうが、この字はいい得て妙である。「籠」である。「⺮(たけかんむり)+龍」とは「籠神社」と同じである。もともとは龍神スサノウ=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊=創造神ヤハウェ」を祀る一神教だったが、原始キリスト教に改宗させられたことを示している。いつの頃かは不明だが、秦氏系の神官がやってきて、天照大御神と天岩戸伝説を残したに違いない。沖縄には基本的に神社はない。「御嶽(うたき)」は磐座で、巫女である神女・ノロしか入ることができない聖域である。なぜか。御嶽とは「女陰」だからである。穴(洞窟や岩をくり抜いた穴・等)なのである。

 

 これを理解していた秦氏系もしくは原始キリスト教に改宗した物部氏が、この地を訪れ、この伝説を残したのである。「伝説」とは伝説であり、史実ではない。何らかの史実をもとに、ある意図をもって作られたストーリーなのだ。その意図は「北から南まで天照大神を奉ずる原始キリスト教の国にする」ということである。この北への伝導を担ったのが源義経なのである。ならば、南は誰が担当したのだろうか。それは「平氏」である。後の「琉球王朝」の祖は壇ノ浦で亡くなったとされる「安徳天皇」であるからだ。そして、平氏とは桓武天皇の末裔、つまり秦氏である。

 

 この北と南を原始キリスト教の国にするため、「壇ノ浦の合戦」なる戦いがあったことにしたのである。そして、同じ天皇家の血を引く源氏と平氏が合戦を繰り広げたことにしたのである。実際に戦いは行われた。奢る平氏は「三種の神器」を我が物にしようとした。だが、それを許さない一族がいた。「八咫烏」である。だからこそ「鞍馬天狗=金鵄」は牛若丸に剣術や戦術を教え、この国の奥義を伝えたのだ。一般的な歴史では源氏が平氏を滅ぼした話しになっているが、実際はそうではないのである。

 

壇ノ浦の合戦の図

 

 こんなことを書くと、沖縄の人たちの伝説を否定してしまうようで申し訳ないのだが、筆者はいい加減なことは書けない。伝説のまま終わらせるわけにはいかない。先日も某人気ユーチューバーの方の番組において、ユタから聞いた話しとして「神武天皇は伊平屋島で生まれた」とさもありなんという顔で語っている人がいたが、そうではないのである。そうした方が琉球民族にシンパシーを持たせやすいのである。同じ大和民族なのだ、ということを植え付けるための伝説なのである。要は同じ血を引きながらも分かれてしまっていることで、同じ民族であることを認識させるための同化政策なのである

 

 だいたい、全国各地に「天岩戸」はある。本日もさるインスタグラマーが「岩戸禊池でデトックス」などとやっているくらいだ。さらに邪馬台国には琉球民族もいたのである。徐福の末裔には琉球民族の血が流れているのである。さらに邪馬台国の琉球民族と和合した末裔の中に海部氏もおり、鴨族もいるのである。だからこそ海部氏が伝える「浦嶋子」の話しが、あちこちの浦島太郎の話しになったり、沖縄が龍宮城だったといった伝説にもつながっているのである。

 

 しかし、一般の人たちは変な解釈をして、トンチンカンな言説を広げてしまう。「琉球民族は真の大和民族であり、日本列島に住むエセ大和民族は朝鮮からの渡来人?」「沖縄の象徴は、シーサー(獅子)です。獅子は、ユダ国ユダ族の象徴で、エルサレム市の紋章でもある。那覇は、ユダ国の2支族が、海のシルクロードを通ってたどり着き、定住した街です」「神武東遷は沖縄から大和への遷都」「沖縄が、南国の天高く日が昇る地=高天原である」などなど。全てが間違いだとは言い切れないが、中には全く理解い苦しむ言説もある。

 

 

 大和と日本は呪術合戦だが、その中には伝承合戦というものもある。要は「日本は八百万の神々の国」というのも「××神社の祝詞はすごい」というのも「××神社こそが最高のパワースポット」などというのも、ある意味では呪術合戦なのだ。その言説に惑わされる人が多ければ多いほど勢力図が変わるからだ。これが仏教となると余計に面倒なことになる。うちの開祖の方が偉いとか、この経文の方が霊験あらたかなどなど、人間の欲望が全面に出てしまうからだ。もはやそこには自分たちのことを「神の民:ヤ・ゥマト」だという自覚は微塵もない。だが、それもまた呪術なのである。

 

<つづく>