にじのほしblog

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第1回 2012年8月21日(火)@吉祥寺SPC
第2回 2013年3月11日(月)@代官山晴れたら空に豆まいて
義援金:福島県相馬市教育復興子育て基金
第3回 2013年8月8日(木)@吉祥寺アムリタ食堂
第4回 2014年3月11日(火)友川カズキ×七尾旅人@甲府桜座 

小さいころから夏は楽しみにしていたわらじ祭りが、だいすきな福島の大先輩、大友さんの手によって新しく生まれ変わるのがうれしくて、新・わらじ音頭初披露となる東北絆祭りに参加してきた。
芳垣さんの扇動する機敏なリズムと、幼少時の盆踊りの大人の部で耳にしていた笛のフレーズやわっしょい掛け声などが楽しくミックスされていて、新・わらじ音頭はわたしのなかで新鮮な血に入れ替わる思い。

そのあと、メインステージにもどると、以前福島に帰省して働いていた広告代理店で少し関わっていた、古関裕而の曲を地元の楽団が演奏していた。正直ゾワっとしてしまった。
吹奏楽のその演奏は甲子園や小さいころテレビで聞いていて馴染んでいてくちずさめるものばかりなのだが、どれも軍歌みたいだったからだ。
代表のかたが、来年のオリンピックで福島は元気だ、と世界中にアピールするシナリオがある!と雄弁に語っていて、わたしの後ろではがんばれ!と歓声をあげる人もいた。この話に喜ぶ人たちがいることをここで確認した。ちょっと待って。そうなのか。全員そうか。
どうなのだろう?

土ぼこりが舞って、前回の東京オリンピックのテーマが始まり、わたしはすぐさま背を向けて家に向かった。

わたしは2020が憂鬱な立場だ。
テレビ捨てたので、いだてんは追えてないし、
東京で来年のための莫大な費用をかけて工事しているのをみて、淘汰された家や店を思い溜息。ニュースで散々みているトップたちの不可解な言動のこと。ここは復興の名でとおく末端まで繋がっているんだ。
トップがだめだからオリンピック反対、とかいうと、出版社のトップがクズだからその本は買わない、みたいな感じにみえそうだが、そうではなくて。

震災のころの東京での数々、8年前の今頃のスモッグ掛かった此処を思い出す。この市役所あたりは立ち入り禁止だった。閉鎖された競馬場を徘徊した震災でぼけた父のことなど。
帰り道歩く交差点の信号がパレードの交通規制で調整されてる。麻痺した信号機と土ぼこりと妙な熱気がわたしを不穏にさせる。過ぎた過去のような、いつか来るかも知るない未来のような。

8年も経っているんだから、終わった?復興した?
わからない。色々あっても一言、元気と言い切ることが正しい?

ぐるぐるしている。

わたしは何万人ものいる復興を願ったお祭りのなかで、ひとりぼっちな気がした。

ここまで出来上がっているでっかい構造。わたしは復興はねがうけれど、その先、オリンピックにはまとめられたくない。少なくともそのお膳立てにはわたしは加担したくない。来年の夏にはどうなっているのだろう。熱帯と化した東京に世界中から人が集まり、オリンピック熱狂の渦にわたしも飲み込まれてしまうのだろうか。

平成が終わり令和になった。新しい元号とともに地元のヒーローだった遠藤ミチロウさんが居なくなってしまった。ヒーローと呼んではいたけれど、震災がきっかけでとても身近な味方になったし、共に生きている気がずっとしていたひと。居ないのはさみしいけれど、ミチロウさんが晩年やって来られた様々活動に込められた意思は違う形になってもわたしのなかで生き続けるにちがいない。清志郎のように。

盆踊りはわたしのなかでは渋谷の深夜のクラブで踊るのと気持ちは変わらない。
けど、オリンピックとなると、実家のスーパーの地場野菜売り場に書いてあった出荷停止の食材のことや呆けた父、片付かない家のこと、原発で働いている方や仮設に住んでいる方や避難したままの方がた、通りがかった地域に取り残されたブルーシートの山などを思ってしまう。

ひとつのことを考える時、かならず反対のことを思い出してしまう。そうすると、結局手放しで笑えなくなってる自分がいる。
いろんな矛盾がわたしをダブルバインドにする。

デモに向かっても、目の前に山のような機動隊員が並んでいてどこまでも迂回させられる。
ちいさい個人が巨大な構造に飲み込まれていくながれは、ひとつのひとつのちいさい疑問や違和感がやがて淘汰され、なかったことにされ。
絶対にそれは嫌だ。

どうしたら強い個を保てる?
震災前ごろから特に世の中がおかしい、マスコミの真ん中にいたわたしは3.11で統合が失調した世の中に対して疑問しかなくなってしまった。

そういうとき、東北を知っているひとや話ができるひとの音楽に守られてきた。孤立した文化に直に触れていると、マスコミはいらない。プロパカンダの箱の、ひとが動かしている構図をみて、パッケージを疑う。もう、群れの意思には加担しない。
そうして、ひとりのひとと対話をする。出来上がった社会にはもう従順できないわたしはひとりで歩く。きっと、ひとりじゃない。

DOORKNOCK,for therapeutic double bind. 

静かに、ちいさい声でも、黙らないこと。

ちいさくとも、ドアをノックしつづけることをやめない。

自分にかけたお守りのことばだ。

つづける。大切があればいい。