40年~ジョン・ロード~ | 紫の吟遊詩人~月の影にて~

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徒然なるままに今思う事を綴っていきます。




1984年、俺は毒両親の目を盗んでFMラジオのエアチェックに勤しんだ。当時の国営FM放送はほぼ全てのジャンルを取り扱っていたので、俺は片っ端から聴いていた。
80年代だからPOPも聴いた。デュラン・デュラン、カルチャークラブ、ABC…自分のツボにピッタリ合っている音楽を探した。

そして、遂に。

狼の遠吠えから始まるあの曲を聴いた。

DEEP PURPLEの「Hush」

これだ!と思った。

ジョン・ロードの弾く芳醇なハモンドオルガンの虜になった。

Hushの他にもDPとそのファミリーの曲を流したが、DJ(名前は忘れたが確かジャズ界隈では結構有名な女性プレイヤー)の方がピアノを弾くこともあって、DPの曲は大体ジョンのハモンドオルガンが主体が多く、「何度も練習したがどうしても上手くいかなかった」という「Burn」も流してくれた。(なので、最初の頃は御大のギターソロよりジョンのハモンドソロに集中していた:苦笑)

番組の最後は「Fireball」…マシン・ヘッドからの曲は1曲も流れなかった。(笑)

ともかく、俺はジョンのハモンドオルガンの音に魅せられ、HM/HRへの扉を開けた。

白蛇、再結成DP…主役も脇役もこなす職人技は神の域だった。

ジョンがDPを巻き込んで書いたクラシックとの合体も興味津々で聴いた。(学校の音楽の授業ではクラシックを聴いても寝てたのに:笑)

俺がジョンを生で観たのは1991年のDP武道館公演の2回(2日目と追加公演)のみ。

今でも憶えているのはジョンのソロが始まると歓声を上げていたのだが…音に惹き込まれていき、最後には武道館がシーンと静まり返った。その中をジョンのハモンドオルガンが高らかに鳴り響いていた。

1つ反省しているのは、ここからジョンがいなくなるまでDP離脱した後の活動を追い掛けていなかったこと。

ジョンは本格的にクラシック作曲家としてのキャリアをスタートさせていたのに…。

ソロライヴではリック・ウェイクマンとの夢の共演を実現させ、DPの曲をオーケストラアレンジさせていた。これが味わい深く、素晴らしかった。

順風満帆だったはずのジョンも病に打ち克てなかった。彼の膵臓癌はもう手に負えない状態で発見されたという。

それでも俺は奇跡を信じていた。

だが…。

ジョンの遺作はDP時代に書いたオーケストラとの共演作のスタジオヴァージョン。
そこでイアン・ギランの役割を担ったのが

IRON MAIDENのブルース・ディッキンソン。
これ以上ない人選。

ブルースは真摯に取り組んだだろう。何せDPの大ファンなのだから。

そんなブルースも、ジョンがあんなに早くここを去ったのはショックだったようだ。

彼のコメントの終盤

「行ってしまうんだな、ジョン。」

泣いた。ブルースの想いがストレートに伝わってきた、と同時に俺も同じ想いでいたからだろう。

それから必死にジョンのキャリアを追い掛けた。ソロアルバムは勿論、白蛇加入前のプロジェクトであるPAL(その前のトニー・アシュトンとのコラボアルバムも)

更にDP結成前に参加していたアートウッズまで。

これでも全てを網羅したわけではない。

だがタバコの煙が立ち込めている小さなクラブの雰囲気そのまんまのPALやクラシックのような劇的な曲を叩かせたら宇宙一のコージー・パウエル等が参加したソロアルバムも素晴らしかった。

リッチー・ブラックモア御大がジョンを偲んで書いた「Carry On, Jon」はまだ聴けない。聴いたら…涙腺崩壊するのは間違いないから。リッチーがここまで明確に追悼な思いを込めて書いた曲は恐らく長いキャリアで初めてだろう。

ジョンには感謝している。HM/HRへ足を踏み入れる切っ掛けつくってくれたこと、
そしてハモンドオンガンの魅力を教えてくれて俺を70年代英国地下音楽を探求する旅へ背中を押してくれたこと、に。

ありがとうございます、ジョン。
貴方のおかげで俺は「音楽が生き甲斐、音楽があるから生きていける」と胸を張る事が出来ます。

そして、これからも俺は貴方の音楽を聴く事で自分がHM/HRに足を踏み入れた時の期待感や喜びを思い出すでしょう。

「ハモンドオンガンの神」である貴方は音楽の中で生きています、俺の心の中で生きています。