日越の知られざる絆  日本軍蛮行の正体は朝鮮人兵(?)  シナ共のスパイ要員獲得手口と恐怖 | はやぶさのブログ

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日本とベトナムの知られざる強い絆のエピソード


2005年12月10日
私は北ベトナムのゲリラ隊を養成した

◎私は北のゲリラ隊を養成したベトナム友好協会常任理事・慶応大学教授(昭和48年当時) 加茂徳治

 私は昭和十七年二月、最初の学徒兵として第二師団(仙台)に入隊、その年の秋、予備士官学校を卒業して、ラバウル(ガダルカナルの北)をふり出しに、フィリピン、マラヤ、ビルマを転戦してインドシナのフランス軍と闘い終戦をサイゴンから西北のロクニン(南ベトナム)で迎えました。終戦後、部隊は警備のためファンライエットまで行きました。ファンライエットという所はサイゴンの北東二〇〇キロの位置にあります。その時、すでに、北の方では八月革命がおこっていました。

 当時、ファンライエットには、ベトミン軍がおり、日本軍を入れないという。ベトミン軍の協力がなければ買物に行くにしても市場へ行くにしても行けない。それをベトミン軍と接渉してやっと海岸の元フランス人の別荘地区に入れてもらいました。うちの部隊は百名前後いたでしょうか、そこへ押しこめられた形になったんです。

 あらゆる生活がベトミン軍の協力がなければ成立しない。ということで、初めて、ここでベトミン軍との接触が生れました。うちの部隊には、ベトナム人の通訳がいまして、これがベトミン軍の協力者だったんです。
そんなこともあって、ベトミンとは比較的うまくいきました。食料も売ってくれて部隊の生活はうまくいきました。条件はベトミンからの要請で、帯剣も銃もダメ、丸腰で出てくれというんです。そうしな
いとベトミン軍とぶつかる、衝突が起こるというんです。

 それで丸腰という条件をのんでうまくやろうという姿勢をみせました。ところが、ある日、日本軍と衝突事件がおこったんです。それで私が、ベトミンと交渉に出かけたんですがそのまま帰してもらえなかったんで。交渉に行ったのは、将校だったという責任上からもありましたが、また、うちの中隊を扱った通訳と気心がしれていたということもあります。

やむをえず、私はそのまま残らざるを得なかった。で残ってなにもしないでいるとカムラン湾にあるニヤチヤン、(通称ニャトランといわれており、かつてアメリカの特殊部隊がいた所)のべトミンを指導してくれという話になったんです。当時、私は中尉でした。

○フランス軍への強い敵愾心
 二ヵ月ほどして、ファンライエットに帰りました。、その時、ファンラィエットではフランス軍が入っていましたのでベトミンからの要請で三十名ほどのゲリラ部隊を組織したんです。
 武器といっても、小銃が三丁、軽機関銃が一丁(これはベトミンがもっていた)、それに手榴弾が一コあったかどうかという程度で、あとはみんな素手です。

その時に、サイゴンから逃れてた日本兵が、五、六名いました。その日本兵に、日本製の軽機関銃をわたしました。ゲリラ組織といっても訓練も何もない。ベトナム人たちは、軽機関銃の使い方もしらないというような状態です。
     
 ベトミンの生活は、村人の支援がないと出来ない。ゲリラ部隊を組織してから、ある時、村長さんが飛んできて、フランス軍がくるという。それじゃ、いっちょうやろうかということになったんです。そこで、私は山の中に隠れました。山といっても丘陵地帯です。南ベトナムは平野地帯が多い。

 田んぼの方を二つに分け、我々は、山の方とヤブの方へ入ったんです。そうすると、フランス軍はゆうゆうと入ってくる。民家に入って略奪を開始した後、いい具合にフランス軍は、我々が隠れているヤブの下の大きな木の下で昼飯を食いはじめたんです。

 それを我々は見つけ、軽機関銃を主体にして攻撃することにしました。作戦はまず軽機で撃つ。そうすると、フランス軍は山の方へ逃げようとする。その時、小銃をもっている者は撃て、あとの連中は、ワーと大きい声をだせ。そうすると絶対、山に入ってこないだろう、というものです。

 軽機関銃というのは一瞬の勝負です。実際一瞬のうちに勝負は決まり、八名ほどフランス兵は倒れました。逃げたものはどうしょうもない。
 この戦闘の結果をみて、村の人たちは、大喜びです。フランス軍がやられたのを初めて見たというんです。村の人たちは、もう家を焼かれても惜しくないというんです。それだけフランス軍に対する敵愾心が強いんです。フランス人が殺されるのを見たのは初めてだというんですからね。

 その時、銃を二、三丁とりました。ゲリラの原則として、敵の銃をとるということなんです。
 その時、一個大隊、五、六百名のフランス軍がきて、迫撃砲射をしました。それで、その周辺におられなくなったんです。フランス軍はベトミン軍にいる我々日本人を指名手配しました。

 そのため、私たちは船で三日三晩かかって、北ベトナムの方へ逃れました。昼は、船底にかくれ、夜は船上に出て、空気を吸うという状態です。そうして着いたのがクアンガイという中部ベトナムです。そのクアンガイでは、ベトナムでは、はじめての士官学校を作っていたんです。陸軍中学と称していましたが、その教官にならないかということになったんです。

 最初に、私がゲリラ組織を提案したのは、ベトナムを解放しようというほどのものではありません。自分たちの村を守るには、どうすればいいかということからはじまったんです。
 しかし、兵器はない。訓練は出来ていない。というんで、小さいながらも組織を作ろうということになったんです。最初のゲリラ組織でフランス軍を打ち破ったファンライエットの闘いで、あとで聞くと、賞状をもらうはずだったのです。

この最初のゲリラ組織を作るという私の提案にベトミンが乗ったということから話ははじまったんです。
 クアンガイの陸軍士官学校では、教官四人が日本人でした。それぞれ日本人の下士官が助手としてつきました。はじめは、このクアンガイの学校だけが、ベトナムの士官学校かと思っていたところ、もう二つ、ハノイ
周辺にあったんです。

 その一つは、バクソンという学校で日本人の教官が三人です。あと一つは、ソンタイというところにある学校でハノイから四〇キロの所にあります。これは、昔、フランス軍が作ったんです。ここには、日本人の教官はおらず、ベトナム人の教官だけでした。だから、いま(昭和48年当時)の北べトナムには、日本人からならったグループとベトナム人からならったグループの二つの系統があるんです。日本人からならった中では、いま、副師団長のような高級幹部がいます。

 このクアンガイから第一期生がはじまり、一九四六年の暮、全国抗戦にむけて卒業しました。士官学校での訓練計画では軍事教育の一切の権限をまかされました。若気のいたりというわけか、その教育は、日本式でやりました。当時の学生たちは、非常に優秀なのが集まってきました。ちょうど日本でいえば大学卒業者にあたります。革命当時のベトナムでは、九五%が文盲の時代というわけですから、彼らはエリート中のエリートになります。

将来のベトナム軍隊の中核を作ろうということでした。期間は六か月で卒業です。卒業後は、全員汽車でハノイに向け出発しました。当時のハノイは、フランス軍が来ていて、一触即発の状態、危険な状態です。それで、ハノイに入れず、ソンタイに入り、そこから各地に向かったんです。次の第二期生の段階から士官学校も一本化しました。それは武備学校(ベトナム語でボービ)と呼ばれました。そこには、日本人とベトナム人の教官がいました。

 一九四六年暮から、抵抗という段階に入りました。ゲリラの抵抗というのは、抵抗している間に力をたくわえようということです。幹部が全国に散った段階が第一の闘いとすると、次の抵抗の時期というのは、兵力保存の闘いなんです。
 当時のベトミンは兵器もそろっていない。素手で闘っている状態なんですから、基本方針として、敵の兵器を奪ってわがものにするという考えです。

 ゲリラ戦、遊撃戦というのは、敵の兵器をうばって自分たちの装備にする。そして、闘いながら大きくなり、更に闘うということです。この思想、方針がいまでもあります。
 小銃といっても、日本製、中国製、イギリス製、フランス製ありという状態です。当然、弾丸も違う。兵器が完備していないから、正規軍には発展しない。
小グループによる闘いということになる。これがゲリラ戦、遊撃戦になるんです。だから、最初の闘いは、五人、十人対十人、二十人という闘い。それから、人数がふえていって、百人対一個中隊という闘いになっていくんです。その中で戦闘経験を積む。南ベトナムの解放戦線というのも、そういうものです。

 その解放戦線のゲリラ戦術に待ちぶせ攻撃というのがあります。敵が何時に通過するか統計をとるんです。パトロールというのは、決まった時間にくるはずです。通るコースはどうで、大体どこで何時間かかるか、の統計をとって、待ちぶせして攻撃するわけです。

 攻撃方法はいろいろあります。頭と尻をたたく、そして真ン中を攻撃する。混乱したところで真ン中をうつ。これはいまでもアメリカ軍に対してやっています。これは、相当、綿密な調査が必要です。ザップも、霧が深くて失敗したこともあると書いています。この戦術は、グエン・ホエが清の部隊を破った時にもあります。

 人民戦争というのは、衆知を集める。その面白い例が、アメリカ軍のセパード犬の鼻をひんまげる方法です。解放戦線側が穴にもぐる。しかし、セパード犬にかぎつけられてしまうんです。ところが、ニンニクならいいということがわかった。嗅覚がしびれるんです。逃げるときに、ニンニクを置くと、そこまでセパードは来るがそれ以上はダメなんです。

 コウモリを使うということもあります。コウモリがアメリ力の拠点にある巣に帰るのを見る。習性をよく調べる。そしてコウモリに火縄をつけるんです。そして飛ばす。南の田舎は、わら屋根が多いから、巣に帰ると自然に火事になる。その火事になったときに攻めるんです。
 これでは、アメリカ軍の近代装備もどうしようもありません。

 フランスとの抵抗戦術の時に使ったのは、道路に穴をあける、落とし穴があります。フランスとの闘いには、竹を鋭くして落とし穴に入れるんです。南では、五寸釘をつけるんです。それが、鉄板のようなシューズを作るきっかけになったんです。この鉄板シューズを、日本が作ったということもありました。この落とし穴の戦術は、フランス軍との闘いから作ったんです。

 また、敵のバラシュート部隊が地上におりられないように、杭を鋭くしたようなものを原っぱにさしたこともあります。
蜂の巣使った素朴な戦術も 南の中部高原には、鋭い弓をもっている狩猟民族がいます。
彼らが放つ矢というのは、10センチほどの厚板をぶち抜くような力があるんです。
 フランス人もそうでしたが、この矢が大嫌いなんです。音もなく来る。非常に不気味だということですね。夕方、うすぐらい時に、至近距離でやる。そうすると、フランス兵は算をみだして逃げるんです。相手に対する心理的影響が大きいんです。

 竹釘のついたふりこ戦術というものもあります。石にワラを巻くんです。竹の釘をいっぱいさす。それを木にぶらさげるんです。ひもでぐっと引く。それを通り道においておくんです。
木の上からアメリカ兵を見ている。アメリカ兵が縄の距離内まできたら縄を切るんです。現実には一人しか死なないかもしれない。しかし、アメリカ兵はものすごくこわがるんです。近代兵器をもっているのに、古い武器にはこわがるんです。

 例えば太鼓です。太鼓をどんどん使うんです。それを聴くとゾッとするとアメリカの捕虜がいったんですから確かです。インディアンの太鼓がこわいんですね。日本の基地にいるアメリカ兵も、日蓮宗の妙法寺の太鼓がこわいといいます。想像もつかないがそうなんです。最初は何げなくやったのが効果があったんでしょう。よく相手を研究し、心理作戦が非常にうまい。

 また蜂の巣を使った素朴な戦術もあります。アメリカ兵のパトロールの道に大きい蜂の巣をぶら下げるんです。アメリカ兵がちょうどその蜂の巣にぶつかる時に、矢で蜂の巣を破る。蜂が出る、アメリカ兵が逃げる。
どこまでも蜂というものは追っかけますからね。これなどは、一般大衆のチエです。 かつて、ソ連の軍事視察団が北ベトナムを訪ずれたときファントムを小銃で落としたという話を信用しなかったことがあります。ミサイルでも難しいのに小銃ではなおのこと難しい。

 ファントムが急降下する。それをじっと待っているわけです。小銃の弾でもあたれば大きいです。正面から射つわけですが、出来るだけ近づいて射てばいい。ベトナム人に聞いたら、やはりこわいというんです。しかし「私もこわいが相手のパイロットもこわいだろう。目をそらしたら負け、自分が打ち殺されるか相手を落とすかどちらかだ」というんです。この場合、低いほど効果があるんです。300メートル、400メートルじゃダメ。その接点が難しいんです。これはコンピューターでは分析できません。問題は思想闘争なんです。
科学では分析できない。科学プラス・アルファなんです。

 ベトナム人の自由と独立への深い決意、そのための英知はいろんな形であらわれました。
 基本的なのは、ホー・チ・ミンのいう自由と独立です。勝つためには、どうするか、子孫が生きるためにはどうするか、そのへんの読みが浅いとまちがえてしまう。鉄砲さえあればいいというんじゃないんです。
そして、戦術も百年というんじゃなく、ずっと昔から伝わっているものが多いということです。        


下朝鮮がベトナムでの蛮行で証明した残虐性から見える「太平洋戦争での日本軍への非難」の正体とは・・・

ここからは、http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/2005-12.html より

ベトナム戦争関係の資料を調べていたら韓国のベトナム派兵について書いてある記事を見つけた。
米国がベトナムに注ぎ込んだカネはしめて1079億7000万ドル(33兆2539億円)、これは1兆6000億ドル(492兆8000億円)余りの米国のGNP(国民総生産)の約1割に過ぎないが自由世界NO2の経済力を誇った日本の国家予算の3年分であった。
 
 米国の同盟国として南ベトナムヘ兵士を送ったのは、韓国(最盛時5万人)、オーストラリア(8千人)、ニュージーランド(1千人)、フィリピン(2千人)の五か国だった。“義理と人情”の板ばさみで、やむなく出兵したところもあったろうが、やはり戦争によって受けた影響にはマイナス面とプラス面の両方があった。
 
 韓国のベトナム派兵がはじまったのが64年8月。それ以後、5回の増派が行なわれ、延三十万人という、米国の友邦国では最大の精鋭戦闘部隊を参加させ、「めざましい戦果をあげた」(韓国国防部)という。 朝鮮戦争当時、北朝鮮軍、中国義勇軍の“攻勢”をはね返した米国の厚い友情に応えたと言うわけだろう。
軍隊がいうめざましい戦果とは徹底的にベトナム人を痛めつけたということである。
戦後しばらく経ってから「ハンギョレ21」http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99278.htm

ベトナムにおける韓国軍の残虐性を告発した記事が掲載された。
 
 むろん、韓国軍の損害もバカにならなかった。戦死2千902人、負傷6千636人を出し、ソウル市郊外の国軍墓地は真っ白な墓標で埋まっている。
 
 ベトナム派兵は多くの死傷者を出した代わりに、皮肉にも韓国の外貨収入をうるおした。
韓国の派兵費用は米国が出しており、現地の韓国兵が給料の88.3%をせっせと本国に送金したのだ。68年から69年のピーク時には、それが年1億6千万ドルにものぼった。一部にこんなことがいわれている。
 
 「韓国軍はベトナム戦争で10億ドル(3千80億円)稼いだ。同じベトナム参戦国のフィリピンの4千万ドル(123億円)、タイの2億ドル(608億円)に比べケタはずれに多い」
 ベトナム特需も多く、最高の年には2億8000万ドル(962億4000万円)もあった。
 輸入超過による慢性的な国際収支の赤字に悩んでいた韓国はこの特需で経済の基盤を確固たるものにした。
ベトナム和平によってそれまで得ていた外貨収入や特需の減少は大きく経済に影響を与えた。
 
忘れてはならないのが韓国兵とベトナム女性の間に生まれた3000人とも5000人(一説では5万人)とも言われている混血児をどう処置したであろうか。韓国人は伝統的に他民族との血の交わりを望まない。ほとんどの混血児はベトナムに残されたままである。
 
 
99年5月256号ハンギョレ21 
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm

韓国軍がベトナムで一般市民を犬でも殺すように殺戮の限りを尽くしたと聞き、その殺し方を知るにつけ第2次大戦時の日本軍に対する非難はひょっとすると、当時わが同胞であった朝鮮系日本人だったかもしれないと疑いの気持ちが涌いてくる。
 
このように朝鮮民族の民族性として、弱いものは徹底的にいたぶり、強いものには媚びへつらうということがある。ベトナム戦においては女・子供に対する憐憫の情というものが全然感じられないし、なぜこれほどまで残酷になれるのか理解に苦しむ。彼らとは民族性の違いを感ずるものである。
 
結局ベトナム戦争は韓国の若者約1万人の死傷者を出し、その戦いの徹底振りからベトナム人の反感をかったが、稼いだ特需10億ドルでベトナム戦後の韓国経済を立て直し、今日の繁栄の基礎をつくったのである。

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2005年12月12日




◎中国のための日本人エージェント獲得の手口


今日(29日)の産経の1面に「狙われる日本外交官」について大々的に報道されていた。
その中で今年5月、在シドニー中国領事館で働いていた一等書記官がオーストラリアへ亡命申請し、雑誌のインタビューで日本国内で活動している中国のスパイは千人を超えると証言している。
今回問題になった日本領事館職員の自殺に関連して、次のような記事が出ていた。
 
北京でも日本の外交官が過激なサービスを行なう店に出入りしたり、大使館ナンバーの車が深夜スナックやカラオケの入口近くに長時間駐車されていることがあると言う。
中国では女性が同伴、過激なサービスをするスナックやカラオケ店が多数あるが多くは公安、軍関係の後ろ盾があるとされる。
 
共産圏ばかりでなく欧米の友好国であっても外交交渉の一手段としてこの手を使っているのは常識の世界である。
 
そしてスパイ防止法のない日本において、いとも簡単に日本の政治家、外交官、官庁の官僚が中国のエージェントになっている可能性は十分ありえるのである。
 
ここに中国人が如何にして日本人に接触し、どのような要領で中国のエージェントにしていくのかが紹介されている
 
貴方の傍に中国人工作員がいるかもしれないのです。
 
*********「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 平成17年12月29日通巻第1341号から引用  
 
(読者の声1)小生の過去の体験談を書かせていただきます。
今から4年前(2001年)の5月に、当時、親しくしていた中国人留学生の友人(当時のルームメイト)と中国に行った事があります。
  当時、小生は、ただの歴史を専攻している留学生であり、対中政策に関しては、どちらかといえば、現在の朝日新聞などの左翼マスコミが主張している立場に近かったと思います。
  ただ、前述の中国人のルームメイトとは、よく歴史問題や日中関係、台湾問題などで、言い合いをしており、負けることも勝つこともありました。
  そのルームメイト(以下J)は、経済専攻だったので、歴史の知識などはあまり無かったのですが、突っ込んだ話などになると、巧みに論点をぼかしたり、話を別のことに切り替えるなど、なかなか議論べたな小生にとっては、手ごわい相手でした。さて、そんな中、彼が中国に帰ることになった時、以前から中国に興味のあった小生は、一緒に連れて行ってくれないか? と頼み込んで、彼と一緒に中国に行くことになりました。
 多少のトラブルなどはあったものの、無事に台湾、香港特区などを、経由して、中国国内に入り、彼の学んでいる大学(広東省の某大学)に到着し、その日のうちに、何人かの中国人学生と知り合いになり、たしか翌日だったと思いますが、朝食を採りに学校内にある食堂に着きました。
  そこからが地獄の始まりでした、いきなりJ,そしてその友人(皆、歴史問題などをはなれると、気の良い奴らばかりでした)に囲まれて、「なんで、日本の首相は、靖国神社に、行くんだ!!」などと、非難された。
いかにこの問題で中国人が怒っているかを、静かに主張してきました。別に、机を叩いたり怒鳴りつけるようなことはなかったのですが、静かに、目を怒らせて淡々と説くのと、周りの学生が、自分を取り巻いているのに、気後れした小生は、謝罪(今から考えれば、なぜ事前にもっと勉強して反論、また日本の立場を主張するように、準備しておかなかったのかと悔いるばかりです)し、それと共に日本人がいかに中国との友好を重視しているかを強調しました。
 そこで彼らは納得した様子で、態度が急に軟化して友好的な態度になりましたが、謝罪している小生の姿を見ているJの態度と表情は、「どうだ、俺達が怒っているってよく判っただろう」とでも、言いたげなものであり、あの勝ち誇ったかのような態度と表情は、一生消えることが無いくらい鮮明に覚えております。(今から、考えれば、自分達の歴史観に同調しない小生に思い知らせてやれということで、事前に打ち合わせしていたのだと思います。)
 その後、彼らは友好的になり接待役の美女こそ、出なかったものの小生の歴史好きを勘案したかのように歴史名所めぐりに連れて行ってくれ(しかも食事代、旅代は、向こう持ち!!)たり、町のあちこちを案内してくれるなど、至れり尽くせりでした。
  莫迦な小生は、本当に、なんて良い連中だろうと恩にきて、良い気分で、日々を過ごしておりました。(中国に行った政治家連中も、この手でおそらく丸め込まれた人が多いのではないでしょうか?)
  すっかり良い気分で、舞い上がっていた莫迦な小生は旅行最終日に、現実を思い知らされることになったのです。 深夜のことでした。
  小生の部屋に、Jといろいろ面倒を見てくれた連中がやってきました。
  何時になく、真剣な顔つきで、相談を持ちかけてきました。
 J:「自分達は、中国共産党員だ。確か日本にも共産党があったはずだ。お前に日本の共産党に入党してもらいたい。そして日中友好のために、共に、働かないか?」
 当然、小生は、断りました。
 その途端、彼らは、それまでの友好的な態度が変わり、特にJは小生に仲間の前で、面子を潰されたと考えたのか、その後、終始不機嫌でした。
  結局、彼らとはその時点で、縁も交流も切れてしまい、現在まで、何度かメールを送ったものの、その後、何の音沙汰もありません。(Jからは、1度だけ、返信が来ましたが、「まさか、お前から、メールが来るとは思わなかった。」と書いてありました。)
  今回、中国での在上海日本総領事館の男性職員自殺事件を知り、この小生の体験談を書かせていただこうと、急遽、パソコンのキーを、叩かせていただきました。
    (TS生、在米)
 
 
(宮崎正弘のコメント)今回の上海領事館の情報官の自殺事件は色々な意味で、日本人への警告です。
思想ではなく、カネと女が積極工作における主要な武器になることは古今東西、共通の要素であり、じつは小生20年ほど前でしたが、当時、日本を震撼させたKGBのレフチェンコ証言を翻訳出版しました。レフチェンコは在日KGB工作要員で大佐でした。
米国へ亡命し議会証言の結果、日本における十数人のエージェントがあぶり出されました。
 その後、山手書房から『ソ連スパイの手口』、つづけて国防総省の『ソ連の軍事力』も翻訳しました。
 スターリンの戦略の核心にあるのがスパイ工作です。 そして中国の情報戦略は、毛沢東以後、まったくスターリン方式を踏襲しており、これまた台湾の蒋介石時代の積極工作も同じでした。
 平和のぬるま湯に浸りきった戦後日本が久しく忘れていた国際政治の裏面にうごめく現実です。いずれ、中国人亡命者の議会証言が日本でも翻訳出版されるでしょうが。
  
Posted by wildhorse38 at 23:51 │Comments(1) │TrackBack(1)
2005年12月28日


関連

中国側、機密執拗に要求…自殺上海領事館員の遺書入手

2004年5月、在上海日本総領事館の館員(当時46歳)が自殺した問題で、
館員が中国の情報当局から外交機密などの提供を強要され、
自殺するまでの経緯をつづった総領事あての遺書の全容が30日判明した。

本紙が入手した遺書には、情報当局者が全館員の出身省庁を聞き出したり、
「館員が会っている中国人の名前を言え」と詰め寄るなど、
巧妙かつ執拗に迫る手口が詳述されている。
中国側が館員を取り込むために用いた中国語の文書も存在しており、これが、日本政府が
「領事関係に関するウィーン条約違反」と断定した重要な根拠となったこともわかった。
中国政府は「館員自殺と中国当局者はいかなる関係もない」と表明しているが、
遺書と文書はそれを否定する内容だ。自殺した館員は、
総領事館と外務省本省との間でやり取りされる機密性の高い文書の通信を担当する「電信官」。
遺書は総領事と家族、同僚にあてた計5通があり、パソコンで作成されていた。
総領事あての遺書は計5枚の長文で、中国側の接近から自殺を決意するまでの経緯が個条書きで記され、最後に「2004年5月5日」の日付と名前が自筆で書き込まれている。
それによると、情報当局は、まず03年6月、館員と交際していたカラオケ店の女性を売春容疑で拘束。
処罰をせずに釈放し、館員への連絡役に仕立てた。館員は同年12月以降、
女性関係の負い目から当局者との接触を余儀なくされた。
接触してきたのは「公安の隊長」を名乗る男性と、通訳の女性の2人だった。
館員は差し障りのない話しかしなかったが、
04年2月20日、自宅に届いた中国語の文書が関係を一変させた。
文書は、スパイの監視に当たる「国家安全省の者」を名乗り、
「あなたか総領事、首席領事のいずれかと連絡を取りたい」と要求。携帯電話番号を記し、
「〈1〉必ず公衆電話を使う〈2〉金曜か日曜の19時―20時の間に連絡せよ」と指定してあった。
館員は「隊長」に相談。すると約2週間後「犯人を逮捕した」と返事がきた。
文書を作った者を捕まえたので、問題は解決した、との意味だった。
館員はこの時初めて文書は「隊長」らが作った可能性が高く、
自分を取り込むためのでっちあげと気付いた。遺書には
「(文書は)彼らが仕組んだ」と悟った、と書いている。
「犯人逮捕」を期に「隊長」は態度を急変。サハリンへの異動が決まった直後の同年5月2日には
「なぜ(異動を)黙っていたんだ」と恫喝した。
「隊長」は、総領事館の館員全員が載っている中国語の名簿を出し「全員の出身省庁を答えろ」と詰め寄った。
「あなたは電信官だろう。報告が全部あなたの所を通るのを知っている。
館員が会っている中国人の名前を言え」と追い打ちをかけた。
最後には「今度会うとき持ってこられるものはなんだ」と尋ね、
「私たちが興味あるものだ。分かるだろう」と迫った。
約3時間、恫喝された館員は協力に同意し、同月6日午後7時の再会を約束した。
館員は、「隊長」は次には必ず暗号電文の情報をやりとりする「通信システム」のことを聞いてくると考え、面会前日の5日に遺書をつづり、6日未明、総領事館内で自殺した。遺書には
「日本を売らない限り私は出国できそうにありませんので、この道を選びました」などとも記している。

「領事関係に関するウィーン条約」は第40条で、領事官の身体や自由、尊厳に対する侵害防止のため、受け入れ国が「すべての適当な措置」を取るとしている。遺書の内容は具体的で、それを裏付ける中国語文書も存在しているため、中国側の条約違反の疑いが濃厚だ。
          ◇
外務省の鹿取克章外務報道官は30日夜、上海総領事館員の遺書の内容が判明したことについて
「本件は、館員のプライバシーにかかわるので、コメントは差し控えたい」と述べた。
(2006年3月31日3時2分 読売新聞)

在上海総領事館員自殺問題 安倍官房長官「非情な脅迫で遺憾」

安倍晋三官房長官は31日午前の記者会見で、平成16年5月に在上海総領事館の男性職員が自殺した問題で、一部報道機関が遺書の全文を掲載したことに関連「政府としても領事館員の自殺の原因は中国公安当局関係者による非情な脅迫、恫喝だと判断した。
ウィーン条約に反する遺憾な行為であり、中国政府に対し今後とも事実関係の究明を求めていきたい」と述べた。

一方、小泉純一郎首相は同日昼
「日本は(中国側に)抗議している。こういう問題を起こさないように、
日本側も注意しないといけない。こういう誘惑はどこの国にもある。国際社会では日常茶飯事だ」
と述べた。首相官邸で記者団の質問に答えた。(03/31 12:02)

Sankei Web 政治 在上海総領事館員自殺問題 安倍官房長官「非情な脅迫で遺憾」(03/31 12:02)

=====

報道後における日中両政府の対応(wiki)
日本国外務省では文春の発売日の翌日12月28日に開かれた報道官の定例会見において、
館員の自殺の事実およびその原因として
「現地の中国側公安当局関係者によるこうした条約国の義務に反すると見られる遺憾な行為があった」
と認めた。また、複数回行われた中国政府への抗議に対して回答が行われていないこと、
発表が遅れたのは遺族の感情に配慮したためであるとも述べた。
これを受け中華人民共和国駐日本国大使館は12月31日に大使館のホームページにおいて、
中国当局は事件に何ら責任が無いことに加え、館員の自殺後に連絡を取り合った日本側が
館員は職務の重圧のために自殺したこと、事件を公表しないように求めたこと、
日本メディアが事件を報道するのは日本政府が故意に
中国のイメージを落とそうとする意図があるからだという主張を掲載した。
日本国外務省は同日中にプレスリリースとして、
日本側が職務の重圧のために自殺したと表明した事実はないことを発表しており、
両者による説明は真っ向から食い違っている。

=====



上海総領事館員の遺書

○○総領事殿

お世話をおかけして申し訳ございません。

1 カラオケの女性が去年6月、「そのての罪」で公安に捕まるということがありました。
後で聞いたところ、不思議なことに1日で釈放されたとのことでした。
ただし、その女性が勤めるカラオケの情報を毎日報告するというのが条件だったようです。
その際、客に××【電信官の姓】というのがいるだろうとも言われたと言っていました。
また、公安に捕まったことは誰にも公言するなとも言われたそうです。

2(1)7月位に私に「その話」をしただろうと、詰問され否定したところ、留置場に入れられたと、
相当おびえておりました。 
(2)8月に入りその女性が勤める店で「スパイ行為」をはたらいていることを
私が他言しないとの確約が欲しいので、私に会って直接話をしたいと言っている。
1度だけ会ってくれないだろうかとその女性から言われました。 
(3)もちろん私は断った上で、絶対に他言はしないと伝えて欲しい旨その女性に言いました。
(4)略

3 私は、断り続けましたが、弱みもあり、1度だけという約束で、12月の14日に、
その女性と一緒に市内の喫茶店で公安と称する彼らに会いました。 
(1)彼らは2人で現れ1人は唐(隊長)(40歳位)だと名乗り、
他の1名は20代前半の女性で陸と名乗り通訳でした。 
(2)まず彼らは、その女性が「スパイ行為」をしていることを絶対に他言しないことを
約束して下さいと言いました。私はそれに同意しましたが、彼らは私の行っている行為は
中国では違法だが、私の総領事館員の立場を考えて、不問にするとのことでした。 
(3)特に彼らは、高圧的でもなくむしろ、低姿勢でした。そして、外国人の意見を聞いて、
「上海の発展に役立たせたい」様のことを言い、これから友達としてつき合ってくれないかと言ってきました。 
(4)私は、それは断ると言ったところ、返事は今でなくても良いから、考えてみてくれと、立ち去りました。

4 その後も、返事を聞きたいので会って欲しいと、その女性(カラオケの)を通じて執拗に言って来ました。
あまりの執拗さに「弱み」もあり、根負けして、再び会い(12月の末頃だと思います)、
私が答えたくないと言うことには答えないという約束で、その後も会うことに同意してしまいました。 
(1)はじめは会っても、日本と中国の習慣の違いとか、上海の悪いところはどんなところだろうといった、
とりとめのない話に終始しました。 (2)略 (3)略

5 2月20日、私のアパートのフロントに手紙が置かれるということがありました。
内容は、国安【国家安全省の意味】だが、総領事か首席【首席領事の意味】か私のいずれかに会いたい、
誰が会うかはお前が決めろと、携帯電話の番号と電話をする時間等が書かれていました。 
(1)今考えるとその時、既に完全に彼らの術にはまっていたのですが、
うかつにもなんとか館の皆さんに知られずに事を済まそうと、彼らに相談しました。 
(2)彼らは外国人を守るのは我々の仕事だし、今までも同様のケースが有ったし、心配することはないと、
すぐ解決する様なことを言っていました。 
(3)それから、急に彼らと会う機会(「解決」するため)が多くなり、
2週間後に「犯人」を逮捕したと言ってきました。 
(4)この時、初めてこの「事件」【文書が届けられたこと】は彼らが「仕組んだ」と気づきました。

6 略

7 また、その後3~4週間会いませんでしたが、女性(カラオケの)を呼び出し、
「××は事態を理解していないようだが、大変なことになるぞ」と脅してきたと、
彼女から「会った方が良い。心配だ」と言ってきました。4月25日にやはり、
市内の喫茶店で会いましたが、私が「礼儀をわきまえていない」、中国では世話になったら、
礼を尽くすべきだ等と穏やかに言っていました。「事件解決」の事を指していると思いました。
私が、何が目的なんだと聞くと(今までも何度も聞いてました)、
やはり外国人の考え方を知りたいなどと、いつものように言っていました。

8 5月2日陸から電話が来て会いたいと言ってきました。この日は、
私は素直に会うことを承諾しました。私の転勤をどこかで知ったのだと思いました。 
(1)一番に、唐は総領事館の転勤はどの位であるのかと聞いてきました。
私は通常2~3年だと答えました。あなたはいつ異動するんだと、聞かれたので、
来年じゃないかと答えたところ、私(唐)はあなたが、転勤するのは知っている、
なぜ黙っていたんだと言って来ました。知っているのなら、
聞かなくてもいいではないかと言ったところ、あなたの口から聞きたいと言いました。 
(2)私は5月28日、日本に帰ると言ったところ、転勤だろうと言われ知っているのなら、
聞かなくてもいいじゃないかと言う私に、再度あなたの口から聞きたいと言いました。
サハリンだと答えると、これからもこのまま「友達」でいたいと言い、
いいですかと念を押してきました。私は「断る」とはっきり言いました。 
(3)すると唐の態度が豹変し、あなたがやって来たことは中国では、法律に違反する。
あなたは領事館員という立場で、そういうことをして、ただですむと思っているのか、
我々と会っていると言うこと自体、総領事館に知られたら困るのではないか、
国と国の問題になるぞと恫喝してきました。仕事を失い、家族はどうなる。
あなたが「協力する」と言えば、家族とも一緒に暮らせるし、その女性も幸せに過ごせる。
全ては円満に収まるではないか。
私達(唐)はあなたが「不幸」になる姿を見たくない等と言い続けました。
3時間を経過したとき、私は「承諾する」と言いました。 
(4)そうすると、いきなり唐は当館の館員全員が載っている中文の名簿を出し、
この全ての出身省庁を答えろと言いました。私は、答えました。
すると、当館の館員で「情報収集」(ママ)の課の出身はだれだと言ってきました。
私は、全員がここの館で初めて会った人なので知らないと答えると、
そんなはずはないと執拗に聞いてきましたが、本当に知らないと言い続けるとあきらめたようでした。 
(5)私たち(唐)はあなたのことは、全て知っている、電信官だろうと言い
「あなたの部屋に他の館員は入れないだろう」とまで言いました。
私の仕事はPCの管理だと言い張りましたが、報告が全部あなたの所を通るのを知っている、
館員が会っている中国人の名前を言えと言われました。皆パスワードで保護しているので、
絶対に見られないと言うと、そんなはずはないが、今日はいいと言い話題を変えました。 
(6)あなたが、私たちに今度会うときに持ってこられるものはなんだと聞かれました。
どういうものなのかと聞くと、私たちが、興味のあるものだ、解るだろうと言われました。
私は行嚢送付のフライトナンバーなら次回持ってこられると言うと、
次に持って来るようにということで、解放されました。

彼らが、私が通信の担当だと知っている以上、
これから必ずシステムのことを聞いてくるのは明らかだと思われます。
明日6日午後7時にまた会う約束をさせられており、
もし会ったら私は日本を裏切ることになりかねません。
私がこういう形で、自分の責任を取ろうとしても、もはや手遅れなのは承知しておりますが、
一生あの中国人達に国を売って苦しまされることを考えると、
こういう形しかありませんでした。ご迷惑は承知の上ですがお許しください。


総領事本当に、いろいろお気遣い頂いたにもかかわらず、裏切ってしまい本当に申し訳ありません。
異動も決まって楽しみにしていたのですが、
日本を売らない限り私は出国できそうにありませんので、この道を選びました。

ご迷惑をおかけしますが、何卒よろしくお願い致します。
この2年間本当にありがとうございました。


2004、5、5   ×××× 【本人署名】  ??
○○は総領事の姓。
読売新聞 2006/03/31 2面[総合]



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