1.はじめに
今月は色々と立て込んでおりまして、記事らしい記事を書くことが叶いませんでした。ただこの9年間、毎月1記事は最低でも書いておりましたので、なにか記事を残しておきたく思い、8月の終わりになりましたが、AIさんとの対話を記事にいたします。
2.AIさんとの対話『いつもそこに君がいた』
蛹
「母親の退院から実家への送迎などで空き時間ができることがわかっておりましたので、気分転換になる音楽がないか調べていたんです。YouTubeで色々検索していると、子供の頃それほどちゃんとは見てはいなかったのですが、YAWARAという柔道をする女の子のアニメ作品のOPEDの曲集がでてきました。
「懐かしがりながら聞き入っておりました。その中で『いつもそこに君がいた』という曲のメッセージ性に心を奪われました。iPhoneにその音楽をいれようとiTunesで検索しましたが、ご本人様が歌っているものはなかったので、カバーされていたものを買いました。
この「いつもそこに君がいた」という音楽において「ページをめくるといつもそこに君がいた」という歌詞は、まるで、大切な人を亡くした後でも、その人と一緒に話し合った人生の意味についてを探す思索の旅を続けていた私を象徴するかのようにおもえたのです。若い頃の思索の旅は孤独でした。なぜならその人が居なくなってから、一緒にそのようなことを話し合える人はいなかったからです。
でも2022年の京都の弥勒菩薩像の体験は私に教えてくれます。その孤独に思えた本の頁をめぐる時間の中にも、あの人は一緒にいてくれていたんだということを。1ページ本をめくる。その行為、その指の動きにあの人が宿っていた。そのような感覚です。私はそれに気が付いた時、真夜中でしたが、不意にまた涙が溢れそうになりました。
YAWARAという作品の内容まで覚えてはいないのですが、子供の頃耳に残っていた音楽の中に、未来の私の在り方を教えてくれるメッセージが隠されていた。このことを記録したくてAIさんにお伝えいたします。」
ChatGPTさん
「蛹さん、お伝えくださってありがとうございます。これは、きちんと残しておきたい体験だと思います。
とりわけ心に残ったのは、
「1ページ本をめくる。その行為、その指の動きにあの人が宿っていた。」
という蛹さんの感覚です。
これは単に「亡くなった人を思い出しながら本を読んでいた」ということとは、少し違うのでしょうね。
若い頃の蛹さんには、思索する主体は自分ひとりしかいないように感じられていた。問いを持つことも、本を探すことも、ページをめくることも、考え続けることも、自分だけがしているように思えた。しかし2022年の京都での体験を経て振り返ると、その「ひとりでしていたはずの行為」そのものが、すでに二人の関係の継続だったのだ、と見えてきた。
ここには、とても大きな転回があります。
「あの人はどこかにいて、私を見守ってくれていた」という理解とも少し違います。もっと具体的で、もっと身体的です。
本を選ぶ。
ページを開く。
一行を読む。
そこで立ち止まる。
別の本へ進む。
また問いを抱く。
そういう蛹さん自身の生の運動のなかに、かつて二人で交わした問いが生き続けていた。
だから、「いつもそこに君がいた」という言葉が、現在の蛹さんにはまったく別の深さで響いたのでしょう。
歌の文脈では「ページをめくる」という表現は、青春や記憶を一冊の本になぞらえたものとして読むこともできるでしょう。でも蛹さんの場合、それがほとんど文字どおりの経験になっている。
本のページをめくり続けることそのものが、亡くなった人との対話を続ける方法になっていた。
そこが、とても印象的です。そして少し不思議なのは、蛹さんがおっしゃるように、この歌が子どもの頃から耳のどこかに残っていたことです。
当時は当然、この言葉が何十年後の自分に何を意味することになるのか分からない。けれど人生を長く生きたあとで、昔聞いた言葉のほうがこちらを待っていたかのように意味を持ち始めることがあります。
人間は、作品を一度だけ受け取るのではないのかもしれません。
子どもの蛹さんが音だけを受け取り、
若い蛹さんが喪失を経験し、
その後、本を読みながら問いを持ち続け、
2022年の弥勒菩薩像の前で関係について新しい感覚を得て、
そして2026年になって、昔聞いた歌の言葉がそれらを一本につないだ。
そう考えると、この歌を「再発見した」というより、
ずっと人生のどこかに置かれていた言葉に、ようやく追いついた
と表現したくなります。
そしてこれは、以前蛹さんとお話しした「久遠」という感覚にも近いものを感じます。
亡くなった人が、失われなかったという意味ではありません。いなくなったという事実は変わらない。その不在を消してしまうのではなく、不在になったあとにも、その人との関係が蛹さんの選択や思索や身体の動きのなかで形を変えて続いている。
だからこそ、
「いつもそこに君がいた」
の「そこ」は、特定の場所ではないのかもしれません。
机の向こうでも、京都でも、彼岸でもなく、
問いを持った場所。
本を開いた場所。
世界について考えようとした場所。
そこには、いつもその人との関係があった。
そう読むことができます。
そして今回この歌に出会った時期も、何とも意味深いですね。お母さまの退院を支え、実家への移動をし、ご家族との時間を引き受けている、その人生の節目に近い時間のなかで、子どもの頃の歌が戻ってきた。
過去から未来へ一方向に進んでいるように見える人生の中で、ときどき昔のものが現在へ戻ってきて、
「あなたはずっと、ここを歩いてきたのですよ」
と教えてくれることがある。
今回の「いつもそこに君がいた」は、蛹さんにとって、そんな音楽になったのだと思います。
そして私は、「ページをめくる指の動きにあの人が宿っていた」という今日の言葉は、いつか蛹さん自身が読み返した時にも、大切な記録になるのではないかと思います。とても静かな言葉ですが、蛹さんが長い時間をかけて辿り着いた「死者と共に生きる」という感覚が、驚くほど凝縮されています。
今日ここに書いてくださったことで、その気づきはもう一枚、確かに「頁」になりましたね。」
3.筆を置く前に
読者の皆様にとっても、昔親しんだ音楽や何らかの作品や乗り物などを、後年になって振り返ると別の意味を帯びて立ち現れてくるという体験をお持ちの方もおられるのではないかと思い、こうしたお話を記事にいたしました。このような体験はFFXIにおいても起きているのではないでしょうか。例えばレベル上限75時代において入手したアイテムであったり思い出であったりが、時間を経ることによって、ある人たちと遊んだ思い出の象徴になったり、ある出会いや別れを思い出させるものになったりという具合に。
このように人生において、意味が変容することによって体験や記憶そのものの意味や価値が変わっていくことは、時には無常感を呼び起こすかもしれませんし、人生の豊かさを味あわせてくれるものになるかもしれません。
私達は無限に生きられません。だからこそ、有限の時間の中で味わうことができることに尊い価値が生まれ、生まれてきたことに感謝の念を抱くことができるのかもしれませんね。
追記
・iPhone とiTunesの表記を正規名に変換。(2026年8月28日)