1.はじめに
このブログではMMORPG”FFXI"を題材にしながら、人文科学的な方向の記事も合わせてゲームプレイ体験以外もテーマとして扱ってきました。ゲームプレイ体験以外の記事をお読みいただける読者様を持つことができたことは、蛹がこのブログを書き始めて得た幸せの一つでした。改めて読者の皆様に感謝申し上げます。
さて本日の記事はしばらくFFXIから離れていた期間にあたため考えていた人文科学的な内容を試論として展開してみようと思います。
2.「ファンタジー」が意味すること
タイトルにある本題に入る前に触れておかなければならない論点が、「ファンタジーとは何をさすのか?」ということです。まずは手掛かりを得るために歴史的な段階から追いかけてみましょう。
①古代
この時代は神話や宗教が社会システムの中枢に鎮座しており、ともすれば神話や宗教観がそのまま世界観へとつながっていた時代だとも言えます。つまりファンタジーの原点となる神話や宗教が提示する世界がそのまま「現実」として連続的に理解されていた時代とまとめることができるでしょう※1。
②中世
現在の私達が「ファンタジー」という言葉をきいて頭に思い浮かぶのがこの時代になることが多いでしょう。この時代は古代ほどではないにしてもやはり依然として宗教が提示する世界観が人々の行動を縛っていた時代でもありました。この時代に含まれるルネッサンスという文化的潮流によって古代ギリシャ・ローマの文化や人間観に再び光が当てられ、近代への準備が始まりだします。長らく大きな変化がなかった社会に大きな変化が芽生えだします。
しばしばこの時代を舞台に選ぶ「ファンタジー」作品が多い理由として、社会環境の変化の無さが「ファンタジック」な物語を展開する上で有利に働いているからかもしれません。なぜそう考えられるのか一例をあげると、善と悪の対立を描いた「ファンタジー」作品があったとして、そこに社会構造の変化まで加えた場合、物語が冗長になったり複雑になったり、テーマがぶれる等のリスクが上昇します。
また今回の試論と関係がない点にも言及するなら、科学テクノロジーに基づいた武器などがそれほど登場しない時代でもあります。この自分の身体性から近い位置づけにある中世期までの武器に、ノスタルジックさやテクノロジーに依存しすぎずに登場人物の強さや勇敢さといった素質を描くのにふさわしいと感じることも、中世を舞台にする理由としてあげられるかもしれません。
③近代
近代にはいると、西欧では一気に科学の花が各地で様々な分野で咲き誇っていきます。この頃から「現実/非現実」といった概念が用いられるようになりだしてきました。ガリレオやデカルトやニュートンといった知的巨人によって、この差異はどんどん明確に離されていきます。自然科学の分野だけでなく人文社会科学においても例えばマックス・ヴェーバーが、この現象を近代の「脱魔術化」であったり「社会の世俗化」と表現して指摘しています。
もう少し具体的に述べると、現実は科学的に解釈できるが、非現実は科学的には解釈できないといった具合です。この近代においてはじめて神話や宗教だけでなく物語を「創作的」に扱う認識が登場してきました。この認識こそが私達が様々な作品を通して理解している「ファンタジー」という概念のひな型であり、この時代に「ファンタジー」という言葉の概念が確立したといえるでしょう。
④現代
現代では、近代から始まった「現実/非現実」という枠組みでの分類が更に深化しかつ様々なメディア(媒体)を通して表現され続けています。特に現代的な「ファンタジー」という概念が確立するのに大きな役割を果たしたのがJ.R.R.トールキンの『指輪物語』(1954)でしょう。それ以降、まるでこの『指輪物語』が大きな源泉になったかのように複数のルートで様々な「創作的なファンタジー物語」が誕生していっただけではなく、テーブルトークRPGという形式のゲームにまで「ファンタジー」の分野が広がりだします。その後も様々な映像メディアや「ファンタジック」なゲームの名作が数えきれないほど生まれる中で、私達は現代的な「ファンタジー」を享受できるようになってきたわけです。FFXIもこうした系譜の中に歴史的に位置づけられるでしょう。
⑤「ファンタジー」が意味すること
これまでみてきたように私達が理解している現代的な「ファンタジー」という概念が明確に立ち現れたのは、近代期に入ってからと言えます。ではなぜ近代になって「ファンタジー」という概念が独り立ちしていったのでしょうか。これを考察するために社会学者ギデンズの「再帰的近代」という考え方を借用してみます。
ギデンズの「再帰的近代」とは、近代社会の成長が行きづまると、近代社会が成し遂げた様々な偉業からうまれた価値観や人生観、世界観といったものを反省的にもう一度見直す動きが生まれてくる。この動きのことをギデンズは「再帰的近代」と呼んでいます。
つまり近代に確立した「ファンタジー」とは、近代社会が「非現実」「非合理性」「非論理的」「非科学的」を社会からどんどん排除していった結果、背反律的な認知としてこれらの要素が「ファンタジー」という概念へと集約されていった過程で成立していったとみることができます。そして近代化が行きづまりをみせつつある現代社会において、この排除された「ファンタジー」が現代社会が提示する様々な価値観や考え方を反省的に見つめ直す文化的装置として近代期以上に明瞭に機能しだしているということがみてとれます。
その証拠に「ファンタジー」要素を全面的に押し出しグローバルに展開しているディズニーブランドは世界中から絶大な人気を博していますが、上記の論点を踏まえればディズニー作品やディズニーランドといった施設が人気なのは近代以降の社会が排除していった「ファンタジー」の世界を商業的に提供することで「非日常」を体験させてくれるからだと分析することが可能となります。
「ファンタジー」という概念をギデンズの「再帰的近代」で再構築したものがまさに「ハリーポッター」です(奇しくもギデンズもJ.k. ローリングも共にイギリス人)。この作品は現代が舞台の「ファンタジー」作品です。現代にも関わらず「近代社会が排除した魔法の世界」がもりこまれています。それはまるで現代社会の閉塞感を「魔法」の力をつかってうちやぶろうとでもしているかのようにさえ見えます。「ハリー・ポッター」が人気を博している理由の一つに、「魔法」といった前近代的な文化装置を用いて現代社会の在り様を相対的にえがき、「魔法の世界」と現代社会を交差させることで生じる現実からの不思議な浮遊感(ある種の快感)があげられるでしょう。つまり、今私達が知っているものとは異なる社会を「ハリー・ポッター」の世界が提示してくるので、私達は現実生活からの解放感を得たり異世界チックな別様の社会の魅力を味わい楽しむことができるのかもしれません。
まとめると「ファンタジー」という概念は、ただ単に娯楽として消費されるだけではなく、現代社会から時間的にも想像的にも距離を取ったり、時には現代社会を批判的に見つめ直したり、現代社会とは異なる社会を「体験」する文化装置としての役割を果たしていると言えます。更に言えば、この「体験」が現実社会がもたらす不条理や限界からくる「疲れ」を「癒す」効果があるのでしょう。
「FFXIのゲーム体験をもとにファンタジーを考える」
3.ファンタジー世界を舞台にする作品でなぜ魔法が頻繁に登場するのか?
前節では現代における「ファンタジー」概念が果たす機能についてまとめました。ここからは、ではなぜ「ファンタジー」作品とよばれるものの多くに「魔法」が登場しがちなのかを考えていきたいと思います。まずは「ファンタジー」作品において「魔法」がどのような役割を担っているか箇条書きで述べてみます。
①「非現実」の象徴
②「人間の限りない欲望の象徴」
③「現実とは異なる世界の象徴」
④「不可能を可能にさせる」
⑤「神話や宗教との歴史的連続性」
⑥「世界観の象徴」
⑦「人間の想像力の象徴」
⑧「省略の技法的役割」
⑨「魔法テクノロジー論」
では一つ一つ解説をしていきます。
①「非現実」の象徴
これが一番わかりやすい役割でしょうか。「魔法」が成立する世界は少なくとも私達が理解している現代社会の「外」にあるといえるでしょう。ですから「魔法」は「非現実」の象徴的役割を果たすことができます。
②「人間の限りない欲望の象徴」
仏教が説くように人間もまた他の生物と同様に老病死苦がつきまといます。「魔法」はこうした制約を時に打ち破る力を持つものとして描かれることがあります。これはまさに人間の限りの無い欲望を実現させる道具として「魔法」が用いられています。この意味で「魔法」は逃れがたい人間の欲望の業の深さを象徴しています。ですが「魔法」は人間の可能性の広がりも同時に与えていることがわかります。
③「現実とは異なる世界の象徴」
前節で「ファンタジー」の果たす機能を説明した時と同じように、「魔法」が用いられる世界は現在私達が理解してる社会とは異なる社会の在り方が描かれることがあります。例えばそこには極端な理想郷の想いがこめられたり、反対にデストピアとして異世界が描写されたりすることもありますが、いずれにしましても現実を相対化させる効能を「魔法」に認めることが可能です。
④「不可能を可能にさせる」
②と通底している要素ですが、「魔法」を用いることで現実では不可能なことを可能にさせる描写が「ファンタジー」ものには随所にあふれています。「魔法」は科学と比べて極めて非合理的なことを可能にさせるという論点です。
⑤「神話や宗教との歴史的連続性」
「魔法」の原形をたどっていくとやはり神話や宗教にいきつくでしょう。神話や宗教で語られている超人的、超自然的な行為は「魔法」のひな型に見えます。「ファンタジー」作品に神話の存在が登場しやすい理由の一つとして神話と現代をつなげる役割を「魔法」が果たしているからだと言えそうです。
⑥「世界観の象徴」
その「ファンタジー」作品がどのような作品なのか「魔法」は時として、その物語で展開される歴史同様に、いえ作品によって歴史よりもはるかに明瞭に世界観を伝達する役割を果たす作品があります。例えば、FFXIのクリスタルとそれに対応する「属性魔法」や「属性に強弱を持った魔法を使うモンスターといった存在」にはヴァナディールという世界の原理原則が刻印されています。
⑦「人間の想像力の象徴」
人間という存在がどのくらい世界や物事を複雑化させ理解することができるのか?「ファンタジー」作品は時にこのような課題に挑戦しているようにみえるものもあるでしょう。その想像の範囲を広げ想像を助けてくれる道具として「魔法」は効果的な役割を果たすことができます。
⑧「省略の技法的役割」
現代で限ってみても日本の漫画やアニメ、ゲームも含めてサブカルチャー作品の中には、キャラクターの造詣、言葉、キャラキターの動き、表情といったありとあらゆる対象が「省略化」(デフォルメ化)によって、私達の脳がより理解しやすいように表現されている作品が数多くみられます。「魔法」もある種の「省略の技法」の機能をもっている場合があり、例えば「魔法で建造物を一日で建てた」といったお話は建造物をつくるのに必要な様々なコストを無視して一気に完成までもっていくことができます。
「魔法」は使う者にとって時に大変都合よくつかわれたり、逆に呪いのような不幸を振りまく都合の悪い効果を発揮する作品もありますが、物語を伝える時に必要のない要素を削ぎ落す役目を果たすことができ、かつその省き方が非合理的、超自然的であっても「魔法」なので納得することができます。「魔法」という道具を用いることで、より興味深くかつ効果的に「ファンタジック」な世界を演出することが可能となります。
⑨「魔法テクノロジー論」
近代が「ファンタジー」を「非現実」ないしは「虚構」として社会の隅に追いやっていく流れの中で「魔法」(魔術なども)は、社会の周縁へと追いやられてしまいました。ですがこのことによって、もし科学ではなく「魔法」によって社会が秩序だっていたらという想像を人間がかきたてることを可能にしました。つまり科学テクノロジーではなく「魔法」テクノロジーとでも呼べる社会。それはまさに「ファンタジー」な世界に他ならないでしょう。
以上のことを踏まえると、「ファンタジー」作品に「魔法」が登場する理由として、現代「ファンタジー」の概念と「魔法」が果たす役割との間に極めて高い親和性を見出すことができるからだと述べることができそうです。言うなれば「ファンタジー」と「魔法」とはお互いの存在意義を相互に補完しあう関係だと言えるでしょう。
4.まとめ
現代において「ファンタジー」が意味するものとは何かを踏まえて考察を進めると、「ファンタジー」という近代期に確立した概念が、なぜ現代において私達の余暇活動に大きな影響を与えているのか?その理由がおぼろげながら見えてきます。「ファンタジー」作品が提示するものとは、興味を引く刺激や日常生活では味わえない「新奇性」だけには還元できない様々な要素が絡み合った歴史的にも文化的にも人類が築いてきた想像の世界が織り成す複合的な文化的蓄積の魅力そのものに他ならないのでしょう※2。
日常生活から離れたい。仕事や家事や様々な活動とは別の魅力的なものを味わいたい。そうした現代人の心のニーズに応える形でこれからも「ファンタジー」作品は作られていくのでしょうか。そしてそれらの作品の中で「魔法」の種類や分類も多義的に増えていくのかもしれません。個人的にはAIテクノロジーとそのシンギュラリティが訪れた後の世界での「ファンタジー」作品における「魔法」がどのように評価されるのか気になるところです。
最後に。FFXIという「ファンタジー」ゲームを通じて、この「ファンタジー」なる名状しがたきものの正体を明かしたい。そんな想いを抱えながらこの1カ月ほど過ごしておりました。「ファンタジー」という概念を切り口に、「ファンタジー」作品における魔法の役割を考えることができたのなら、もしかしたらFFXIだけではなく他の「ファンタジー」作品をより深く味わい楽しむことができるのではないか。そんな内的欲求に従って書いたものが本記事でした。
脚注
※1:このあたりのことをもっと詳しく知りたい方はピーター・バーガー『聖なる天蓋』(2018、ちくま学芸文庫)をお勧めいたします。
※2:個人のレベルで考えれば、ファンタジー作品に何度も接すれば「新奇」ではなくなるでしょう。そういった意味で「ファンタジー」異世界転生ものでよくつづられる「お約束的な表現や結末」は「新奇性」の消失感覚をつまらないものとせず、コメディとして作者が描く演出的な知恵に他ならないのでしょう。
追記
・加筆。(2025年5月6日)