今日はイレブンを題材に、コミュニケーションについて考えてみたいとおもいます。

古代ジラード民は、言葉を介さなくても意思の疎通ができたという設定があります。心がそのまま相手に伝わるので、皆が同じ気持ちや価値観を共有できていたということです。

しかし、ジラードの王子達が「楽園の扉」開こうとしていた頃、クリュー人と呼ばれる、心と心が直接つながらない人達がでてきました。この人達がのちに、グラビトンのような存在になっていきます。

ジラードの人達は、心が通じない存在のクリュー人達を一段低い存在としてみていたのでしょうか。いずれにせよ、古代ジラード世界は永遠に失われ、心と心が直接通じない世界になりました。これこそ、私達が接しているヴァナディールの現在の世界です。


翻って、現実の私達は、ジラード人というよりクリュー人に近いと言えるでしょう。心と心は直接触れ合うことはできませんよね?

でも直接、心と心が直接触れ合えないからこそ、私達は社会システムという、心的システムとは別個の文化を築けているのではないでしょうか?

もし、直接心と心が通じ合うのならば、そもそも言葉は発達しないどころか、かえって不要だったかもしれません。心に浮かぶ感情を言語化し伝達する方法を工夫する必要がないわけですから。

また現代の私達を縛っている貨幣もジラードの民には必要ないでしょう。貨幣とは、時間、場所、相手の差異を問わず取引可能な地平線を保証します。ですが、嘘やだましが通じないジラードの世界では、貨幣が担う「信頼」の機能的価値はなくなります。せいぜい質的差異を量的差異に還元する機能だけは保持できるのかもしれませんが。これでは貨幣の発達は望めそうにありません。

 法律もどうでしょうか?私達は相手の心が外から見えないからこそ、不文律を作り、これを尊守することで、自分と相手との関係性を築きます。でも心が直接触れ合えるのなら、当然相手の痛みも自分の痛みになるので、相手を傷つけることはそれほど起きないかもしれません。ですから、相手や自分を縛る法律は必要がないかもしれません。

 言葉、貨幣、法律とあげてきましたが、これらは私達の社会を形づくるのに必要不可欠なものです。心と心が直接触れ合う世界は、私達が住んでいる世界より、もっと単純で明快な世界なのでしょう。しかし、複雑な社会を形成するには、心と心が間接的にしか通じ合えない方が都合がいいようです。

現実的に、心と心が直接触れ合えない私達はどう足掻いても、単純な世界では生きられないのです。これはまるで、キリスト教のエデンの園と楽園からの追放という神話と共通する考え方です。私達は単純な世界から「追放」されてしまっているわけです。
サンドリア正教会が楽園への扉に固執するシーンが、サンドリアミッションなどでえがかれますが、聖書との類似点があるのは、面白いですね。


  19世紀の知の巨人、マックスウェーバーが言うところの「現実の複雑性」とどう向き合うか。これこそが、私達の目の前に提示されている「問題」であり、「複雑な現実」から逃げずに向き合うことこそが、「生きるとは何か?」という問いへの答えになるのではないかと考えます。

現実であれ、イレブンであれ、私達は相手がいる前提の世界に住んでいます。そして相手は、直接心が通じない存在です。だからこそ、わたし達は、言語や貨幣や法律といった社会的媒体を通じて間接的に相手の心と通じ合おうとひたむきに努力をするのです。つまり、直接通じ合わないからこそ、心と心が通じ合おうとする行為自体に価値がでてくるわけです。

この行為を焦点化した言葉こそ、コミュニケーションです。コミュニケーションとは、まさに人類がこれまで築き上げてきた歴史的な努力の結晶でもあるのです。

私達はコミュニケーションという複雑で面倒な行為を日々行っています。このブログを読んでいる方は、イレブンのプレイヤーさんだと思いますが、コミュニケーションで傷ついた者はコミュニケーションでしか救われないというのが、私の自論です。コミュニケーションから逃げてしまっては、「傷」は一生治らないでしょう。

イレブンの世界であれ、現実の世界であれ、短絡的だったり、ゼロサム思考(極端な二択しかない考え方)で、自分や相手を縛らないでください。曖昧で線引きが難しいグレーな世界に耐えてこそ、この複雑な世界が持つ多様さと、多様さによって生じる豊かな楽しさや喜びを味わえるとおもうからです。

人生が私達に提示する様々な景色を味わうためには、古代ジラード文明への回帰は望んではいけないです。ですからジラードの王子が目指した「すべての存在が神へと一元化する楽園への扉」は、決して開いてはいけないのです。