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リーベショコラーデ

thoughts about music and singers

澤村翔子を2014年2月の『ボッカッチョ』以来久しぶりに見ました。1年ぶり。
演目は「チャールダーシュ侯爵夫人」の作者カールマーンによるオペレッタ『伯爵令嬢マリツァ』
初めて観る演目です。

 
あれ、HPからコピーしましたが表裏でサイズが違う


主催するのは「東京オペレッタ劇場」

澤村翔子の経歴を見ると(出所: wikipedia) この劇団のほとんど専属歌手です。
オペレッタが好きなのかなぁ、と思います。今まで何度かこの劇団の役を見ましたが、どれも似合っていなかった。この人は沼尻竜典さん(指揮者)と共演か或いは沼尻さんに推薦された時の公演が一番似合っています。そもそもこの人を最初に見たのは沼尻さんの公演でした。群馬で私の友人のマリア・ラドゥエヴァと共演した時も沼尻さん(群馬交響楽団の首席指揮者兼芸術アドヴァイザー)から呼ばれたと聞きました。

オペレッタ劇場に出演するときはいままでいつも「歌唱」が少なくて期待を満たされない事が多かった。つまらない筋書きでも歌がよければ大抵の公演は十分価値があるものです。「歌」より「寸劇」の割合が多いこの劇団はどうも好きになれませんが、今度こそはと期待して行きました。

澤村翔子はジプシーの女占い師役。「妖艶」という設定だそうですが(解説ノートより)、なんか80年代のヒッピーのようで美しくもない衣装にがっかり。衣装といえばもっと出番の多い若い娘リーザ役の富田沙緒里の衣装も膨張色を着せていて、太って見えて役柄に全然合っていない。とモデル出身のにゃー発言。(にゃーはいつもメイクと衣装にウルサイです)
衣装のセンスが無いなぁ。というよりあまり深く考えずに貸し衣裳から選んだだけではなかろうか。

澤村翔子は最初に歌いました。あれは良かった。難しい音程変化を確実にこなして歌手としての技量の高さを見せました。ただ「ナクソス島のアリアドネ オペラ劇場あらかわバイロイト2014年11月23日(日祝) C公演」で作曲家役の澤村翔子を観た人が「声量が足りなかった」と書いていましたが、私も今までの9割ぐらいしか出ていないことを感じました。歌の種類のせいではないと思います。身体のコンディションが変わったのかと思います。

さて、澤村翔子の歌唱が終わっても観客は誰も拍手しないまま進みます。役者が次々登場しますが、まず感じたのは「ケミストリーが無い」

ケミストリーというのは適当な日本語がありませんが、舞台上の役者どうしの一体感、時空を共有しているという熱、のことです。無い。お互いのことが好き、という感覚が全然無い。共演するのが楽しいという空気が舞台の上にまったく無いのです。そういう気持ちが感じられたのは富田沙緒里だけです。新人だから出られれば嬉しいでしょうが、他の人たちの間になにかあったのか、と感じられて、客席との間に冷たい壁があります。観客を巻き込むことができていない。小さな劇場なのに。(183席)

一方、男性の特定の役者が出てくると、意味なく笑ったり歓声を上げる中年以上の女性が最前列を占め、中ほどの客席にもそういう人がたくさんいました。もともと女性比率が7割以上でしたが、どうやらこの客層は「男性役者のおっかけ」で構成されているのです。この劇団には同じ演目でも繰り返し観に来てくれるお客様がいる、と澤村翔子が言っていたことがありますが、演目の内容より別のものによるものと今回感じました。もったいないことです。もっと歌唱力で勝負できる人もいるのに使い方がそうなっていないのです。

私はこの劇団は好きではない。何回も見たけど変わりませんでした。オペレッタを上演しているのにちっとも楽しさが無いのです。笑わせるのはダジャレとかその時の流行り言葉のマネとか、今回は太田胃散のギャグを言わされてましたがあの伴奏をしたときのビアニストは恥ずかしかっただろうと思う。そういうもので笑わせるのがオペレッタではないでしょう?志が低いとしか思えません。

リーザとポプレスクが愛を確認してワルツを踊る、というシーンがありましたが、踊るのかなと思ったら二人で手を取り合って左右に体重を移動するだけ。

二期会のチャールダーシュの公演の時も書きましたが、ワルツというのはヨーロッパの社交界のシンボルなんです。貴族がワルツを踊るというのは欧州の文化であって、アメリカ人はしない。西洋人でも「ワルツ」というのは憧れのシンボルなのです。二人が貴族ならここで楽しそうに幸せいっぱいにワルツを踊るというのは演出上の大きな見せ場のはずです。それを台無しにしました。

以前、日本の某ノーベル賞受賞者が授賞式に奥さんと出席した時、授賞式の後にはパーティーがあって、当然ボールルームがあって、年寄りばっかりのノーベル賞受賞者の中で若い奥さん(当時32歳)とワルツを踊ったことがあります。それは見栄えがよかった。日本人の生物学者がワルツなんか踊れるはずがないから、これはこの晴れの日に日本の名誉をしょってワルツを披露できるように練習したに決まってるんです。人に見せるのが仕事でない人がそこまでするのに、芸人が舞台で見せるためのワルツを練習してこなかったというのは芸人失格と思います。あるいは、この演出家にそういう考えが無かったのでしょう。


この団体から何か学んで人が育っていくことは無いと感じました。
思えば、澤村翔子がいままで一番輝いていたのは「ダークヒルズ恋愛白書」のドナ役をやったときでした。鷲尾舞衣さん目当てで観に行きましたが(2012年1月)、澤村翔子のドナに圧倒されました。あとで知りましたが、台本を書いたのは澤村翔子の夫の北川辰彦だったそうです。自分の奥さんにもっともいい役をやるのは当然でしょう。澤村翔子がこの劇団になぜまだ加わっているのか、不思議です。もっと自分の歌唱力だけで勝負すれば良いのに。残念な事です。


今日と明日もあるそうです。


最後までお読み戴き有り難うございました。



澤村翔子(ドナ役のとき)



■ 付記
「リーザとポプレスクが」と書いてしまいましたがリーザと結婚するのはポプレスクではなくジュパンだそうです。済みません。お詫びして訂正します。三人を超えると名前が覚えられないんです(^^;
ソプラノ歌手 湯浅桃子さんの初めてのファンクラブの集いににゃー と行きました。土曜日のお昼、会場は代々木のレストラン。フルコースの食事と飲み放題のワイン付きで5500円。



湯浅ももこさん(何故かファンクラブでは平仮名)は2012年08月29日 の二期会アフタヌーン・コンサート at ヤマハホール Vol.3で聴いたときに感想を書いたことがありますが、オペラ歌手に必要不可欠な「品格のある雰囲気」をとても持っている人だと思います。それが「自信」として歌唱に現れている、というような感想を書きましたし、この方はそういう方なんだと思っていましたが、違いました。

「自信」を持っている人ではないんですね。「私は美人」とか「私は上手」とか、思っている所為の「自信」ではない。

食事が最初に始まりましたが、自ら料理を運びながらテーブルにやってきて一人一人に挨拶していました。あれは偉い。そこまでさせて良いものか、こちらが恐縮しました。「御自らサービスですか?」と聞いたら(私が書いてることがこれでバレバレですが)「昔取った杵柄⁉︎お店のジャマ⁉︎」とかなんとかユーモアで切り返すのも上手。だいたい、アタマの良い人は話も上手。私の知る限り日本のオペラ歌手でお話が上手なのは、大隅智佳子さん、鷲尾麻衣さん、赤池優さん、湯浅桃子さん(順不同)ですが、皆さん東京藝術大学卒なんです。湯浅さんの時は入試の倍率が10倍だったと今回お話しされていましたが、私の周りにもそういう難関をくぐり抜けてきた人が100人くらい居ますが(同期生とか娘たちとか)、思うにそういう道を歩める人というのはもう運命が決まっていた、幸運を呼び寄せるちからを持って生まれてきたとしか思えないようになりました。あまりにそういう人がたくさん存在するからです。この方もそうです。

それで、歌はこのリストです。





最後の「私はティターニャ」は2012年08月29日 の二期会アフタヌーン・コンサート at ヤマハホール Vol.3で聴いた曲です。あの時の強い印象、他の歌手と別格に素晴らしかった思い出が甦ります。湯浅さんは声も美しいし声量もとっても豊かです。他の歌も、それぞれご本人の思い入れと思い出を交えて解説してくれましたが、なんだかずっと昔から知っている歌手さんのような、一緒に歴史を重ねてきたような気持ちになりました。他人の人生を共有した時間でした。

その人生の選択の歴史を聞くにつれてそこで改めて思ったのは、この人は「美人だという自信があるからそのような自信にあふれた歌になる」のではなくて「歌を歌う道を選んできたことに気持ちのブレが無いから自信がある歌になるんだ」ということです。美人だから自信があるのではなく、自信のある生き方をしているから美人なのです。私の理解は順序が逆だったのです。
人生には「選ばなかった道」というのが年齢を重ねるにつれてたくさん生まれるものです。時には、あっちの道に進んでいたら人生どうなっていたろうかと思うことも自然にあります。けれども、いつも書きますが「今の自分がいつも最高」なのです。それ以外の自分なんて存在しない。今のこの自分が今まで自分を創ってきた結果の自分なのです。他に自分はいない。唯一で最高に素晴らしいのが今の自分。

何かを追求している人というのはブレがありません。そういう人のところには必ず誰かが応援にやってくるものです。誰しも、誰かを助けることができたら助けたいじゃないですか。そして、その助ける相手は助けるのに相応しい人です。見返りが欲しくて助けたりするものではない。

ファンクラブができたのも、そういう縁でしょう。ただ、運営者にはちょっっと引っかかるところがある。ここには書きませんが、湯浅桃子の裏方に徹して自分を出さないのが本当の姿ではないかなと私は思います。

歌の後には本人自ら選んできたというプレゼントの抽選会もありました。そういうファンを大事にする姿勢というのも感心します。人間、もっとも大切なものは「時間」です。それを他人のために使うことほど尊いものはない。立派です。


これは当日全員に配られた手書きのお礼とお菓子と「ネットで読めない人のためにブログを印刷したもの」です。ここまでするか、と再び感心しました。

ピアニストの谷合 千文さんとも長いお友達で、ドレスを貸し借りすることもあるという話もされました。(ファンクラブ事務局長はこの親友のお名前を覚えていなかったのは失格)女性で長い友情を保てる人というのは私の知る限りとっても少ないです。女性同士に友情はあまり無い。しかも芸術家同士というのも珍しいでしょう。個性が強い人間しかいないんだから。それも人柄を反映してるのだと思いました。


私の夢は「ばらの騎士」の元帥夫人を湯浅桃子で観ることです。これは前にも書いたことがあるかも知れません。歌唱力だけでなく気品と風格の必要なこの役がぴったりなのは日本人では湯浅さんしかいない。と思います。いつかお願いします。

最後までお読み戴き有り難うございました。
公益財団法人神奈川芸術文化財団、公益財団法人東京二期会、公益財団法人びわ湖ホール、公益財団法人大分県芸術文化スポーツ振興財団、公益財団法人神奈川フィルハーモニー管弦楽団、公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団の共同主催公演 歌劇「オテロ」ににゃーと行ってきました。S席ペアというのがあって、ひとり12,000円というオペラ公演にしてはお値打ち価格です。これも皆様の税金のおかげですね、有り難うございます。




オテロというオペラは、原作(シェークスピア)とは別物になっているオペラの代表で(その他の代表は「椿姫」「蝶々夫人」「マノン・レスコー」などなどなどなど)、このオペラだけを鑑賞すると結論は「良家の娘は黒人と駆け落ちすべからず。人妻はハンカチを失くさぬよう用心すべし。夫は証拠を十分確認せずに嫉妬すべからず」になるしかありません。【この感想は17世紀の批評家トマス・ライマーが書いたものと当日もらった冊子(写真のもの)に書いてありました】

要するにオリジナルの戯曲とはまったく別のものであって、どっちかというとストーリーは共感できず音楽を聞くためのオペラだと私は思います。ですから指揮が沼尻竜典さんだったので観に行きました。この方は飄々として重鎮の雰囲気が全然ありませんが、日本の指揮者の中では話の面白さでは随一なのです。だいたいアタマの良い人は話が上手で面白いものですが、それが芸術家なら作品にダイレクトにその人の個性が知的に反映されて作品も興味深いものになるものです。

ということで、22日日曜日14時からの公演に行きました。

オテロというのは、また同じ主語で始まりますが以前アンナ・ネトレプコが話していたのですが「オテロを見た。終わって幕が降りた。誰も拍手をしなかった。感動して動けなかったのです。そしてしばらくして、やっと割れるような拍手とブラボーが。」
「そのとき、私はこれだ、と思った」
「私がやりたいのはこれだ、と」
それでオペラ歌手になったと。そういう話を聞けば一度は観たくなるではありませんか。


結論を言いますとこの公演はオテロ役のアントネッロ・バロンビが素晴らしすぎるくらい素晴らしかったです。大成功でしょう。ストーリーは決して共感できるようなものではないのだけど、彼の演技力、歌唱力、表現力すべて素晴らしかった。本当にアホなオテロらしい造形をしていたけれども最後のシーンではアホなのに一緒に泣けました。あれは泣けましたなぁ。。。

ドミンゴのオテロを観たことがありますがドミンゴは上手いけれど美男子すぎます。オテロというのはモテモテの人物とは対極の人でなければならない。いかにも女性の扱いが上手そうだとオテロではないのです。そこがアントネッロ・バロンビは嵌まっていました。決してご本人はブサイクとかアホではないのだけど演技力が物凄いものがありました。あれをできる人が日本のオペラ界にいるだろうか。。。

今回の解説書にも

「オペラ『オテロ』は、シェイクスピアの『オセロー』の第一幕をカットして、よりドラマティックな展開にしているが、カットされた場面には重要な文化的背景が描かれており、そこが理解のヒントとなるだろう」河合祥一郎(東京大学教授) 

という文章もありましたが、その辺は実はオペラの中でもちゃんとあるのです。オテロとデズデモナがデュエットする場面で、オテロは「自分の生い立ちを哀れに思ってデスデモーナは愛してくれた」と歌うとデスデモーナが「いいえ、不幸を克服したあなただから愛した」と返すのです。これだけしか歌詞では説明しないので気が付かない事もあるでしょうが、残りはオテロの演技力でこのこと(文化的背景)を繰り返し観客に気付かせるのです。アントネッロ・バロンビ。プラボーです。

もう他に言うことはありません。歴史に残る名演でした。沼尻さんの音楽もよかった。この方の音楽にいままでハズレを経験したことがありません。


あとは、付け加えると、第四幕にすぐ「柳の歌」があるのですが、三幕のあとの休憩時間に県民ホールは温度が上がったので(観客の熱狂のせいでしょう)空調を入れました。その所為で、四幕が始まった途端に客席のあちこちでほぼ10秒おきに咳が始まったのです。気の毒に安藤赴美子さんの美しい歌声は最後まであちこちから聞こえる咳に邪魔されました。空調をいれたのは大失敗です。覚えておいてください劇場の方。観客が咳をするのは100%空調の冷たい空気が温かい空気と混ざることが原因です。


しかし「柳の歌」をまともに聴くとご飯が食べられなくなるくらい落ち込みますから、気分的にはそうならなくて良かったかも知れません。帰りに県民ホールの裏にある横浜名物の牛煮込み蕎麦を食べて帰りました。久々に満足感で満たされたオペラ鑑賞でした。

最後までお読み戴き有り難うございました。

田中彩子さんのリサイタルに行ってきました。新国立劇場から同日の移動。



この方は最近日本のテレビにも出ているようで、知名度は新人にしては非常に高い人です。検索語にもよく出てくる。

実は私は田中さんがまだまったく日本で無名の頃(2011年)からお話したことがあって、ゲルマン圏に生活している日本人女性ということで応援していたのですが(あそこに生活するのは本当にシンドイと思います)、あるSNSを通じてどんどん日本人に名前が知られるようになって、日本にいないのに来日リサイタルを満席にしたことがあって、しかもそのお客さんというのがオペラにまったく縁も知識も無い人達が男女ともに大勢いて、「やり方を間違えなければ一年で1000枚のチケットを売ることができる」事を実例をもって証明した人なんです。あれから3年。紀尾井ホール800席をほぼ満員になさいました。「自分のファンだけで一杯の劇場でリサイタルしたいと思いませんか?」と某声楽家に尋ねたことがありますが返事は無かったのを思い出します。

ということで、思い入れのある声楽家のリサイタルです。私が誰だかバレないといいのですが、このリサイタルは期待を少しだけはずしました。というかバレてると思いますので正直に書きますが、一曲目の「春の声」はとてもよかった。軽い声質ですが、本当に鳥が囀るような歌声で、一曲目で十分観客を引き込みました。けれども、コロラトゥールだけが武器のような歌唱なのです。どの曲も同じ印象になってしまい、バラエティというか変化が乏しい。夜の女王を歌うにはコロラトウーラの技術も高音を出す能力もあるけれどデモーニアックな雰囲気が足りません。全然足りない。後半は疲れたのか高音を控えたりアンコールの出だしをはずしました。粗探しをしたいのではなくて、将来に期待するものがある、という事です。この年齢ならまだまだ深みを増していく成長段階です。

日本にもこれぐらいの年齢でこのくらい上手な歌手さんは何人かいますが、紀尾井ホールを満席にできる人は一人もいません。メジャーレーベルからCDも出したし、「売り方」でこんなにも差がつけられるものだ、ということを日本の声楽家の方々によく刮目してもらいたいものだと思いました。

そういうバックアップができる才能が日本には全然いないのも残念なことです。


最後までお読み戴き有り難うございました。


※ 余談ですが「デモーニッシュ」という言葉を使う日本人がよくいますが、デモーニッシュはドイツ語ですので英語の会話で使っても通じません。似ている例として「エネルギッシュ」という言葉を英語だと思っている日本人がよくいますが、エネルギッシュはドイツ語ですので英会話で使っても通じません。英語では「エナージェティック」と言います。聞いたことないと思いますが。意味もエネルギッシュとは違いますし。
マノン・レスコー@新国立劇場オペラパレスに行ってきました。
詳細はこちら。


★会員...の文字列は気にしないように


平日の午後2時から、というのに劇場はほぼ満席。
なんでも2011年3月、東日本大震災のため公演中止を余儀なくされた公演を同じ主要キャストで来日公演したそうです。
マノン役を演じるのは、ブルガリアの名花ヴァッシレヴァ。
映像はこちら。

なかなか綺麗な人ですが、
が、

マノン・レスコーというオペラはマノンという女性の魅力度が大きな鍵である作品で、それはどんなタイプの女性でも構いませんが「魔性」というものを持っていないと主役が務まらないと、私は思います。

どんなタイプの女性でも良いんです。カルメンのような強烈な個性でなくともいいんです。可愛らしい系でもいいし、大人のセクシー系でも清純派でもなんでも良い。ただし、それが男を引き込む「魔性」というものを同時に持っていないとならない。綺麗なだけじゃ足りない。

言いたいことはもう言ってしまいましたのでこれで終わります。

最後までお読み戴き有り難うございました。




※私の好みでいうと、マノンがもっともよく務まるのは数年前のアンナ・ネトレプコです。来日公演でマノンをやったそうですが当時はお金が無くて行けなかった。。。2010年9月1日(金)18:00 東京文化会館 A席が54,000円だものなぁ。。。
あの方は性格は天然系だけど「魔性」がある。常人とは違う人生を送る星の元に生まれてきた香りがプンプンします。

あと、今回の演出はとっても違和感がありました。見た人にしか説明できませんがあの男性二人が女装してる芸人のようなのはなんなんでしょうか。。。スカートはいてて踊るんですが、理解できませんでした。合唱の中に上手な人が何人か混ざっていましたが白粉で真っ白なので顔がわからず名前もわからず。
ラストは救いの無いシーンですが、マノンの「魔性」というものが全編で発揮されていないので「なぜこの男がここまでマノンと一緒に来たのか」が説得力がなくて、感動も共感もありませんでした。

そもそも、この救いのないオペラにみなさん何を求めて観に来るのでしょうか?
純愛、かなぁ。観客は年配のご婦人が多数でしたが、そうなのかなぁ。

ネトレプコで観たら違うのかも知れない、と思いつつ次の会場に向かいました。(この日は連チャンしました)


あと、新国立劇場オペラハウスというのは、いつも毎回必ず「背もたれに背中をつけて鑑賞してください」というアナウンスをします。上の階の席だと身を乗り出さないと舞台が見えないんです。あれは劇場の設計のミスだといつも思います。一階席は良いんだけど。

あと、公演の最中に咳をする人がいるのは実は空調のせいだ、という話を以前もしましたが、新国立劇場の空調は一級品です。いつも、咳をする人がほとんどいません。あれは優れている点です。


盛り上がらないレビューで済みませんでした。

大隅智佳子(ソプラノ)さんが出演、ということで北千住まではるばる出かけてきました。

尚美学園大学の公演ということで、大隅さんは専任講師なんですね。演出にも加わっていることでしょう。期待が膨らみました。


結論を言いますと、複数の歌手に瑕疵がありましたが、今まで観た「フィガロの結婚」の中でもっとも感動する公演でした。それは大隅さんの歌唱が素晴らしかった事の他に、大隅さんのちからがどのくらい貢献しているのかは分かりませんが、(もともと『処女権』とかいうものが出てくる話は日本男子の私には受け付けられず、歌手がよければ観る、というのが私にとっての「フィガロの結婚」でしたが、)ようやく、このオペラの言いたいことが初めて分かったように思いました。

このオペラでもっとも有名な歌は「恋とはどんなものかしら」という、ケルビーノ少年が歌うアリエッタですが、そして、非常に多くのメゾソプラノがレパートリーとしていますが、この歌だけでも説得力のある歌唱をする歌手はなかなかいません。なかなかいなかった。良い声をしているメゾソプラノは少なからずいますし、私はソプラノよりメゾソプラノのほうが好きなほうですが、それでも「恋とはどんなものかしら」を「ああ、そういう歌なのか!」と思わせる歌唱をする人はなかなかいない。

このケルビーノというキャラクタは、実は原作(ボーマルシュの戯曲)には出てこない人なんだそうです。(今回のプログラムに書いてありました)しかし、このオペラには決定的に重要なキャラクタであることは、オペラを観れば間違いないことです。題名役(タイトルロール)でもないのに何故重要な役回りなのか? 主要な登場人物が四人以上になると話が見えなくなる私ですが(せいぜいヴィオレッタとアルフレードとお父さんぐらいにしてほしい。魔笛などはいまだに誰がなんなのか分からない・・・)、にゃー「あの子(ケルビーノ)がこのオペラが言いたいことの全体の中心なのよ」と以前言っていたことがありますが、今回のプログラムには「ケルビーノは自分の心を襲った得体の知れない恋の恐れにわななき、憧れに胸を焦がし、その熱い思いはどんな女性にでも向けられるのだと歌うのである。これは唯一の恋人への永遠の愛を歌い上げる紋切り型のアリアではない。むしろ原理としての「愛」あるいは「性」の表現であるかのように響く。そしてそれは『フィガロの結婚』全体の原動力でもある。」田村和紀夫 と、まったく趣旨を同じにする事が書かれており、そういう解釈の上でなされた公演だということが成功の理由と思います。

どういうことかと言うと、長くなりますが、

このオペラは基本は「喜劇」です。まったく笑いの起こらない公演を観たこともありますが、これは「人間の喜劇」を描いているのです。大隅さん(スザンナ)と佐野正一さん(伯爵)が向かい合って首をかしげて「あれっ?」という仕草をする演出など笑ってしまいました。あんなの見たことない。西洋人はしないでしょう。「喜劇だ」という根底の理解が全体に通底しているから、こんな小さな仕草でも笑えるように作れるのです。それは小さなことですが、この公演を決定的に成功させているもっと大きな理由は「愛というものは分からない」という事をテーマにしているから、だと思ったのです。それはつまるところ、故・高橋光太郎さんが言っていた「楽譜の表記を道路標識を守るように演奏しても音楽にはなりません。音の彼方にあるものを探らなければいけません。作曲家が作品の着想を得た源泉とつながらなければなりません」という言葉の中の「作曲家が作品の着想を得た源泉」というものが、「愛というものは分からない」という非常に人間的な哲学的な真理なのだろうと私は感じたのです。

このオペラは題名通り「フィガロとスザンナの結婚する日」の出来事だけで終始するのです。結婚に至るまでには長い時間があったはずです。「この人でいいのかしら」と誰でも考える時間があるでしょう。「とりあえず結婚しとこう」とは行かない。その結婚の決意を経た結婚の当日に、フィガロも、スザンナも、お互いに別々のきっかけで相手を疑う。人の心とは誰にも分からないものです。それが結婚式の当日の相手の心でも同じだと。しかし、このオペラの終幕では「愛」というものは「最終的には相手を信じて許すこと」という結論を言うのです。そして、その「愛」というものの定義については、二幕でまず最初に、少年ケルビーノの「愛というのがまだなんなのか分からない」というアリエッタで始まる。これは「伯爵夫人への恋心の歌」と思っている人も少なからずいるでしょうが、実はそうではないのですね。この年齢の男子というのは「女性なら誰にでも興味がある」時期です。経験者が言うのだから間違いありません。これは女性には本当のところは分からない部分です。毎朝あれがあれになってetc割愛しますが、身体全体から性的な香りが匂いたっているときです。決して「中性的」なんじゃなくて「性的魅力が顕現する直前の状態」「もうすぐ男性性が爆発する少年」がケルビーノなんです。実際、ケルビーノは、劇中の女性だれかれにも恋心を抱いています。ちょっかいを出します。年上だろうが同い年だろうがお構いなし。みんな好き。女はみんな好き好き好き。そういう時期なんです。経験者が言うのだから間違、割愛。

だから、「愛というものは分からないもの」という歌から始まって、「愛を疑う歌」がなんども歌われて、最後の締めくくりの直前の「まだ疑いの最中」の最後に歌われるのが「喜びよ 遅れずにやって来て」というスザンナ(大隅智佳子)のアリアなんです。スザンナはもちろんフィガロの事を想って歌います。「薔薇の冠をかぶせましょう」という言葉で終わるこのアリアの美しい事。今までこの歌の意味を知りませんでした。それが大隅さんの歌声で歌われると、本当に愛の歌なんだと分かりました。(これをフィガロは「伯爵への愛の歌」だとカン違いして聴くのですね)
その歌詞には「いらして愛しい人、茂みの中へ」というエロチックな歌詞まであったとは今まで一度も気が、割愛。

「人間にとって愛とは何か」ということをモーツァルトはこの作品で言いたかった、そこに作曲者の着想の源泉があったのだ、という確信を、この公演で得ました。納得しました。「処女権のはなし」ではなかったんです。長いこと敬遠していてもったいなかった、でも、この今回の公演がなければ私にはずっと分からなかったことでしょう。私たちはいずれ皆、この世から去ります。その短い間に「愛」というものを知り、学び、喜び、悲しみ、そして生きることを楽しんで生を全うする。愛が生きるちからの源泉なんだ、ということを説得力をもって伝える公演でした。


複数の歌手さんに瑕疵があったと最初に書きましたが、自覚されてるでしょうから書きません。もう、多少のことはどうでもよくなった公演でした。良かった歌手は佐野正一さん(伯爵)と久保和範さん(フィガロ)が特に良かった。歌唱も良かったですが、なにより本作の「喜劇」的なおかしさをよく体現していました。大隅さんはもうすべての場面の歌が素晴らしかった。二重唱でも別格だった。本当に鳥が囀るような歌声です。弱音がまた素晴らしい。弱音の高音のコントロールこそソプラノの生命と私は信じてますが、大隅さんのソプラノは日本の宝物です。(いや、国のものにする必要は無いですが日本人だから、、、。ここは「人類の宝」と言い換えましょう。世界にもっと知らせてあげないといけませんね)

あと、特筆しとかないとならないのは「字幕」です。この公演の字幕はとてもよくできていました。字幕って字数が限られていますが、カタカナで名前を書くと字数が取られてしまいます。ケルビーノとかマルチェリーナとかバルバリーナとか、長い。それを歌手がその名前を歌っているときは字幕に使わなかったのです。「名前を歌の中で言ってるんだから分かるだろう」という発想に違いありませんが、日本語というのは「読んで理解する言葉」で、一方西洋語は「聞いて理解する言葉」という大きな違いがあります。詳しくは割愛。(鈴木孝夫先生の本をお読みください)だからこの字幕を書いた人は日本人ではないのではないか、と思います。日本語のできる、西洋文化の背景の人、だろうと。歌詞を聞きながら字幕を読むと、両方の情報からもっとたくさんのことが分かるのです。(歌詞をそのまま字幕にしているのではない)この方法は素晴らしくよくできている、と誉めたいです。続けて欲しいと思います。


追記しますが、フィガロが「君の声だと最初から気がついていた」とスザンナに最終幕で言いますが、これも奥深い意味があって、話が長くなりますが昔「外国人と結婚した日本人男性」のメーリングリストがあって、その中で「文化によって何が性的魅力かが違うか?」という話題が登って、そのときに「そもそも異性の何に性的魅力を感じるか」という根本的な話になってですね、それはもちろん「顔」とか「長い髪の毛」とか「脚」とか「くちびる」とか要するに『容姿』がたくさん上がったのですが、「声」が挙げられた時は一同強く納得したものなんです。どう思いますか?ですからここでフィガロがVOCE(声)と言っているのは「声で聞き分けられる」程度の話ではなくて「私が愛する声すなわち君」のことが好きだ、という感情が横溢しているシーンなんです。声とは異性の性的魅力の強力なひとつでしょう。だから女声に魅力を感じているわけですが、その「声」を大隅さんがやったから、ここのシーンも「ああ、この声が好きなんだな」とフィガロの気持ちに成りきることができたのですね。他の歌手では今まで経験できなかったことでした。追記でした。


次は来月末の大隅さんのリサイタル、楽しみにしています。

最後までお読み戴き有り難うございました。
先週から「ピアニスト高橋光太郎」という検索語でこのブログにアクセスする数が急増したので

私も同じようにしてみたら、高橋さんがお亡くなりになっていたことが分かりました。

最後に演奏会に伺ったのは2014年4月17日Vol.13の横浜みなとみらいホールでの演奏会でした。



いつもすぐにレビューを書くのに、この時は書けませんでした。
演奏が始まって、音楽が今までの高橋さんとまるで違うことを感じました。
今だから書けますが「生気」が無かったのです。杖をついて現れ、演奏にも力が無く、曲の間も立つ事ができず座ったまま拍手を受けていました。

曲目も塩谷さんの歌唱も良かったけれど、高橋さんのいつもの音楽とは違いました。

休憩のあと、スキルス胃癌だと告白されました。既に相当な痛みをこらえているようでした。病状はステージ4だとおっしゃいました。


ショックを受けました。人間はいずれ皆死ぬとはいえ、自分の命があとわずかと知ったら自分は何をするだろうか、と考えずにいられませんでした。私の操縦士時代の同期生は、同じこの年に、知らせを受けてから二週間で亡くなっていました。

そういう時に、私だったらリサイタルに立てるだろうか。

高橋さんは「秋に次の演奏会を予定しています。必ず戻ってきます」と言いました。
人間、病気になった時にいちばん回復力になるのは「本人の意思」です。
きっと帰ってきてくれる、と希望を持ちました。


アンコールが始まりました。痛みをこらえているだろう事が知れました。
まさか、得意のショパンではないだろう、と予想しました。この日の高橋さんはいつものショパン弾きとは違っていたからです。ショパンは弾かないだろう。。。

Liebesleidが始まりました。
高橋さんがこの曲を弾くのを初めて聞きました。沁み入りました。
そのタイトルどおり、明るく悲しい曲でした。
Liebesleidはドイツ語で、日本では「愛の悲しみ」と訳されています。

もう一曲、弾きました。
サンサーンスの「白鳥」。
よく、音楽を聞くと情景が浮かぶと言う人がいますが、私はまったくそうではないんですが、この時は光り輝く白鳥が静かにピアノの上を舞ってキラキラした光が溢れる姿が見えました。そんな経験は初めてです。白鳥のメロディーをご存知ですか。あれはチャイコフスキーがバレエ「白鳥の湖」で「瀕死の白鳥」という踊りのシーンにそのまま使った曲なんです。
そのことを言いたかったんだな、と思いました。
あんなに幽玄な音楽を聞いたことがありません。
そして二度と生きて聞くことはないでしょう。


素晴らしいピアニスト。素晴らしい音楽でした。有り難うございました。私の人生に音楽の美しさを与えてくれました。音楽は体験であり、録音で聴くものではない、ということを実感させてくれました。芸術に生きるということはどういうことか、という姿を見せてもらいました。色々な本を読むように教えてくれました。どんな音楽家が偽物か、厳しく教えてくれました。


高橋さんに教わって読んだ本を紹介します。

以下、高橋さんの言葉です。

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ピアノの音を決定するのは、まず演奏者の音楽に対する意識とイメージが問題になります。
 その他の要因としては、どの調律師を選択するか? どのピアノを選択するか?ホールの音響はどうか?ということも関係します。

 この事に関しては、ホロヴィッツの調律師フランツ・モアが書いた ピアノの巨匠たちとともに という本がとても良いです。

 日本にはピアノが入ってきて約150年になりますが、スタインウェイの本格的な調律技術が日本に入ってきたのは50年にもならないと思います。
 この日本のピアノ調律のパイオニアである杵淵 直知氏が書いた ピアノ知識アラカルト という本もお勧めです。本の最後のほうのエッセーの内容がすごいです。
 特に「リヒテルの血」というタイトルのエッセーは衝撃的です。
 ドラマ化しても良いような内容ですが、諸般の状況が許さないでしょう。

 ピアノは演奏者によっても音は違いますが、調律師の貢献も大きいです。
 いつもお願いしている調律の方は杵淵さんの弟子です。

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楽譜の表記を道路標識を守るように演奏しても音楽にはなりません。音の彼方にあるものを探らなければいけません。
 作曲家が作品の着想を得た源泉とつながらなければなりません。究極のところ、音楽は音を通じた神からのメッセージだと思います。
 これについては、最近読んだ 大作曲家が語る音楽の創造と霊感 アーサーエーブル著がとても良かったです。
 ブラームスが50年封印を希望したインタヴュー、トスカについて語るプッチーニなど大変興味深い内容です。
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愛の夢は、不当に通俗的な扱いを受けている作品だと思います。
 曲が通俗的なのではなく、世の受け入れ方に問題があるのです。
 崇高な作品です。私は最高の気持ちを込めて演奏しました。
 思い入れたっぷりに見えるのが大切なのではなく、思いが聴き手に届くことが大切なのです。

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ルービンシュタインといえば、華麗なる旋律 という自伝が素晴らしいです。
 静かに演奏会を聴こう、という習慣はつい100年前まで無かったらしいです!
 当時は、好きなところで拍手、ブラヴォーをしていたらしいです。
 19世紀末から20世紀初頭の音楽界の様子やルービンシュタイの赤裸々(すぎる)な女性関係など・・・。ほとんどR18指定の内容です!!
 絶版のようですが機会がありましたら是非どうぞ。

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 私は、いわゆる音大出の友人知人でこの手の本や話に興味を持つ人に出会ったことがありません。
 なぜか、音大出以外の人のほうが興味をもってくれます。
 世の中あべこべですね。

 ルービンシュタイン、驚異的な記憶力のある家系のようです。
 ルービンシュタインはピアノの達人でもあるが、人生の達人でもある。と、何かで読みましたがあの本を読むと納得です。
 音楽家必読の本だと思うのですが、音大出の友人知人はこういう話まで進みません。

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ベートーヴェンといえば、昔、乱歩賞を受賞した モーツァルトは子守唄を歌わない というミステリーが面白かったです。
 ベートーヴェンが探偵役でモーツァルトの死の謎を解く、というストーリー。読みやすい本ですが、意外とこの本に描かれているベートーヴェンの感じが私は気に入っています。

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 ルビンシュタイン長いけど、面白いんですよ。というか引き込まれました。
 実は、本を最初にに手にとってめくって読んだ時、ああ、しまったフィクションを買ってしまった!!と思いました。
 これが彼の実人生とは・・・驚嘆の至りです。

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昔から、日本人に本物のメゾソプラノはいないと言われてます。
 マリリン・ホーンやエレーナ・オブラスツォワを聴けばその差は歴然としています。

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 そういえば、昔(あの歌手は)こうつぶやいてました。
 私、友達いないんですよ・・
 その時は、何を言ってるんだ?と思いましたが、今思えば納得です。
 当時は、バイトしながら歌やってましたよ。ふぐ料理屋だったか小料理屋だったか・・・
 そういう人多いです。本当に。
 でも、バイトするなら音楽関連のを選んで欲しい!
 職業の色ってつくと思うんですよね、その人に。
 人間って総合的に色々関係して生きてると思うんですよ。
 人生って不思議ですよ。

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そして、これが最後に戴いたメールです。


 お返事が遅くなり申し訳ありません。
 現在、実家の盛岡で療養中です。

 何かとお気遣いいただきありがとうございます。
 また必ず、演奏再開します。
 その時まで、お待ちください。

 またお知らせいたします。
                               高橋光太郎

 ☆最近は、edwin fischerの皇帝をよく聴いています。 体調がよくなります。

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高橋さん、素晴らしい音楽を有り難うございました。
そして、ここには書けませんがお知り合いになれたことで私の人生が変わるほど助けて戴きました。私もあと二年の寿命と思って、最後まで輝く時間を過ごします。
トゥーランドットを初めて全幕観てこんなにつまらないオペラだったのかブログを書いてしまい、「そんなはずじゃないんじゃないか」とメトロポリタン歌劇場のDVDを観てみました。


プッチーニさんゴメンなさい、素晴らしかったです音楽もストーリーも

プロダクションでこれだけ違うものなのか!を実感しました。

特にリュー(レオーナ・ミッチェル)がカラフ王子(ドミンゴ)の名前を隠すために「私だけが知っている」と言って拷問にかけられ、苦しみながら「私はもうあの方を見なくていい。これから目を閉じます」と歌いながら自刃してしまう(ここは有名なアリア「氷におおわれたあなた様」)シーンは圧巻。涙無くしては見れません。トゥーランドット姫が心を動かされる姿もよく演出されている。プッチーニはこれを言いたかったんだなぁと思いました。自己犠牲。Devotion。だからこの後はもう音楽を書けなくなったまま死を迎えたんじゃないだろうか。。。

「愛のちから」で冷酷非情なトゥーランドット姫が生まれ変わるというその愛は先日のプロダクションでは「強引なカラフ王子の愛」のような解釈にしか考えられずまったく納得できませんでしたが実はそれは「リューの愛」によって氷が解けたんだ、というこの演出は非常に納得できて涙を誘います。

演出のちからを実感しました。

んでまた舞台が豪華。衣装も姫と奴隷リューの対比もよく表現されているし、華やかな舞台衣装で大勢の女性が舞うし、演出したのは誰かと思ったらフランコ・ゼッフィレリ。やっぱり一流のものを最初に見ないといけないということです。(私の世代にとってはオリヴィア・ハッセーの『ロミオとジュリエット』の美し過ぎる衣装と映像を作った監督として青春時代にノックアウトされた人です)しかしメトロポリタンは18000円では観れないからなぁ。(METライブビューイングというのを考えたのは偉かったけどあまり以下割愛)


しかし、一流のものを見ると感想もたくさん浮かんできます。

エヴァ・マルトンのトゥーランドット姫は京劇のヒロインを思わせる舞台姿が素晴らしい。覇王別姫のレスリー・チャンを思い出しました。美人かどうかの評価などすっ飛んでしまいます。

さらば、わが愛 覇王別姫 [DVD]
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カラフ王子は普通は(普通というのは無いけど)リューを選ぶだろうに、本当に美しい物が見えていないアンポンタンと書いてしまいましたが、このプロダクションでは違う。彼は周囲から妨害されても「何があってもどんなことがあってもこの想いを遂げさせてくれ!」というところは男としては激しく共感しました。特にこのプロダクションではものすごい美人のバレリーナが何人も出てきてカラフ王子を誘惑するのに、私だったらあの脚を見たら・・・

いやいや、愛は何物にも負けない、と、リューさえも愛さなかったカラフに激しく感情移入しました。


三人のピン・ポン・パンも個性が強く出されていて、本当は国の平和を望んでいるのに暴虐な姫のために苦悩を抱え望郷の気持ちを歌ったり、コミカルな役割ではなく実在感のある人物像として描かれていた。

民衆は絶大な権力と暴力を持つ専制君主に逆らえず無力。どんどん人殺しが行われるけれども財宝も様式美も伝統としてあるところにはちゃんとある、という極めて現代の中国に通じる姿も映し出されている。

ジェームス・レバインという指揮者は「オペラの指揮者」には普通は見えない(「普通」というのは無いけど)けれど、歌手の自在な動きと音楽がぴったりあっていた。歌と音楽がズレない、というのは当たり前のようでそれができていない指揮者が結構いるものですが、そこはこのオーケストラの音楽は素晴らしかった。


最高のものを最初に観ないとその後の人生がもったいないことになる。


このプロダクションのリューの歌唱を聴いて涙が出ない人はそもそもオペラに縁がないと思ってよろしい。


プッチーニさんゴメンなさい、トゥーランドット素晴らしかったです。


最後までお読み戴き有り難うございました。
イタリアオペラ最後の大傑作(初演1926年4月25日ミラノ・スカラ座)トゥーランドットを初めて生で観てきました。

キエフ・オペラと題していますがウクライナ国立歌劇場のことだそうです。



結論を先に書きますと、退屈でつまらない三時間でした。

(1)歌手に声・容姿ともにまったく魅力がない。
(2)舞台に動きがほとんどなく、二幕などは合唱用の歌手が絢爛豪華な衣装のまま45分棒立ちしているだけ。
はるばるウクライナから来て戴いているけれど二流の歌劇団と感じました。

あと、これは歌劇団の所為ではありませんが、

(3)音楽は西洋人の東洋趣味ということに尽きる。日本人には珍しい音楽とは思えない。
(4)ストーリーが意外と面白くなく、納得も共感も全然できない。


(1)は歌手に一人も魅力的なのがいなかった。
トゥーランドットというのは一幕は何も歌わないんです。その存在感だけで観客を魅了しなくてはならない。なにしろカラフ王子(「誰も寝てはならない」を三幕で歌うテノール)が一目惚れする相手なんだから。なのに容姿も声も役不足でした。

で、カラフ王子。声量が全然足りない。この日は「オペラは初めて」という観客の割合が非常に多く(そう言っている人もいたし、オーケストラのピットを初めて見るので休憩時間に人だかりができていたし、何よりも年配の人の割合が非常に少なかった。要するに「荒川静香のあの曲」で来てるのだと思います。あちこちで「アラカワシズカ」という単語が飛んでましたし)、「誰も寝てはならない」では拍手が起こりましたが、声出てない、しかも高音で声が裏返った歌唱に拍手してはいけません。あそこは大ブーイングでしょう。(パバロッティがそうだった)
このテノールは急遽代役で来日したそうですが、日本でブラボーを言わせる力量はまったくありませんでした。(事実、この日は一度もブラボーがありませんでした)
以前、テノール歌手の上原正敏さんが「誰も寝てはならぬ」を唄ったとき、「このアリアはとっても難しく、この役を全幕通して演じれる人は多くはない(誰でもできる役ではない)」という話しをされていましたが、まさにそういう歌唱程度でした。


(2)は本当に退屈しました。大人数が直立不動で立ってるだけ、って、小学校の発表会か?
衣装は豪華でした。それも漢族の衣装を取り入れていた。(上方のポスター)

漢族の女性の衣装って、知ってますか。

私は以前中国に赴任した時、現地の女性の友達にさんざんからかわれたことがあるのですが、それは「あなた、中国では女性はみんなチャイナドレス着ていて男性は人民服着て自転車に乗ってる、と思っていたでしょう?」です。

「はいそうです(笑)」


チャイナドレスっていうのは清の時代の満族の衣装なんです。
漢族の衣装はこれです。


お友達の趙さん


頭に大きなリボンのような飾りのついた花が乗ってるでしょう?
今回の衣装はこれをモチーフにしてるわけです。

この衣装でもっと華やかな動きを入れてくれたら目にも楽しいのに。


(3)は、全曲を聴いたことが今までなかったんですが、そして、欧州では非常に評価が高いそうですが、プッチーニって「蝶々夫人」の作曲者でもありますが異国趣味を取り入れた人なんですね。イタリアオペラの因襲から抜け出したと言っても異国のほうに住んでる私たちにはちっとも異国情緒が感じられず、毎日聴いている音楽の繰り返しのようで退屈しました。にゃーは寝てました。18000円のチケットなのにぃ。


(4)の「ストーリー」についてですが、リューが本当のテーマだったんじゃないか、と思いました。(リューの死まで作曲したところでプッチーニは亡くなったそうです)だって、心が清らかで王様との逃亡生活の間には王様のために物乞いまでして尽くし、最後はトゥーランドット姫に一目惚れのボンボンのアンポンタンのカラフ王子を守るために死んでしまうんですよ。普通なら(普通というのは無いけど)カラフ王子はリューを選ぶでしょう、トゥーランドットの地位と財産目当てでなければ。リューはアリアを三曲も歌います。そしてリューが死んでしまうシーンからあとはプッチーニは続きを書かなかった。

有名なみっつの問いの答えは「希望」「血潮」「トゥーランドット」(ネタバレですが有名ですから)ですが、どれも納得できない答えです(笑)。「血潮」って。。。そんなことば死語では?「若い血潮の~♪」とかいう歌を暗記させられたことがありますが意味が分からない。。。

で、退屈しまくったところに第三幕「誰も寝てはならぬ」・・・そういう歌だったのか~。。。


アリアだけ、名歌手で聴くべきオペラでした。

最後までお読み戴き有り難うございました。

辛辣でゴメンなさい。